坊っちゃんの品格

僕は貧乏である。

そして同時に坊っちゃんでもある。

価値観がどうなってしまったのか、それは僕にもわからない。ただそれは現象的な坊っちゃんであり、本質的にはみずほらしい存在であったのだ。

このことに気がつくまでに長い時間がかかってしまった。

両親がお金と時間を目一杯かけてまぶした教養というメッキもここ数年間の転がりでめっきりと剥がれ落ちてしまった。

ただ、僕には目一杯のお金をかけられてしまった時間と経験が残ってしまう。それだけは僕の内側にメッキでは済まない烙印として残るのだ。そしてその烙印はゆっくり時間をかけて僕の根拠のない余裕へと模様を変えていく。

周りの人たちが本物の大人になっていくなかで時間をかけて、時間をかけて、僕は大きな坊っちゃんになっていった。

ここまでくると愉快なもので、周りが足掻いているように見え、自分が貴族であるかのようにさえ感じてくる。これらの全能感には全て根拠がないというところが怖いところなのだが、周りの友人さらには妹までもが本物の大人になっていく。彼らは不幸せで僕は幸せ者、そう蓋をすることで平静を装って過ごす日々だった。

これをピーターパンシンドロームというなら、さながら僕にとってのウィンデイを見つけない限り終幕ができないのだが、一向に現れる気配はない。

ただ、困ったときにどことなく湧いてくるお金はだけはあった。

幸い親は世間でいうバブル期の節制由来の小金持ちであったし祖父母は地主ということもあり、困ったりやりたいことが出来た時には小学校の頃から一切の不自由がなかった。

よく言えば金銭面での本当の不自由を味わうことがないまま26年という年月を過ごしている。悪くいえば身分不相応の生活を親や親族から文句を言われずに26年もの間、過ごしているのだ。

26年と言う歳月はとても長い。

本物の大人になっている人間にとっての26歳とはなりたい自分への中継点であるが、大人になれてすらいない僕にはただ漠然とした26回目の1年なのだ。

なりたい自分を描くどころか、なってはならない自分を回避し続ける逃避そのものが目標になってしまっている。

逃避が生きる目標となってしまうとなにも産み出せない負の連鎖が動き出す。自分より優れていると感じた人間から無意識に遠ざかり良い刺激よりも下を見る安堵に身を寄せてしまうのだ。ここ6年間はずっと下に降りてきてしまった。高校生の時には見下ろしていた職業に6年も捧げ、大学も2度辞めることとなった。

まだ大丈夫、下を見ればまだいるから

とうとう高校をでて真っ当に働いていた人間からも見下ろされるところまで来てしまった。

中高私立一貫の男子校の温室育ちの僕には許容しがたいところまで下って来てしまった。

こんなに追い込まれても許容しがたいなどとのたまっている自分の小さなプライドには僕が一番虚しくなった。

これが大人の年齢になっただけの坊っちゃんの品格と言うならばあまりにお粗末なものだ。

追伸

以前はじめてnote投稿をしたときよりも気持ちが上向いてきたので就職活動をしてみようと思う。

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