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友達【オヤスミの前にvol.73】

どーも、シオです。

最近「教室の片隅」という言葉が似合わないと言われることが増えてきています。
喜ぶべきなのか、嫌がるべきなのか分からないが、僕とたった1回だけ30分も話していないのにそんな風に言えることがすごいなと思いました。
別に煽りでもなく純粋にすごいと思いました。

自己認識と他者からの認識の差異、また人ごとに違う言葉の認識のズレ
この2つにはたまに恐怖を覚えるくらいいつもビックリさせられています。

例えばお湯と言う言葉がありますが、英語ではお湯と言う表現はないです。
Hot warterと言う表現になるのです。
暖かい水。
日本語ではあまり出番のない言葉な気がしますね。
そのくらい言葉というものにはズレがあるから、いつも相手にちゃんと伝わっているのだろうか?ってドキドキする。
だから簡単に他者への断定をする人は今でもすごいなと思います。

今の僕が明るく見られたり、よく喋るやつだなと思われたりするのはよく分かります。
実際に自分で俯瞰してみてもそう思えるように最近生きていると思えるからです。
だけど、これが本質だとは思えません。
僕の心は教室の片隅から、ガヤガヤ喋っている同級生達を畏敬の目で見ていたあの頃からそんなに変わっていないからです。

僕は友達が少ないとよく言います。
けど、周りからはあまりそうは思われません。
なぜなら僕はサシで話すことの出来る人はたくさんいるからです。
サシで話せるなんてめちゃくちゃ仲が良いねってよく言われるのですが、そんなことはないっていつも思うのです。
一対一って会話の基本的な形じゃないですか、聞くターンと話すターンが分かりやすくて、1番テンポが掴みやすいし、何より相手の個人的な話を聞けるから楽しい。
だけど、それが3人なった途端どうでしょうか?
その瞬間話すターンと聞くターンというのが分かりにくくなって、さらにはそれぞれの関係性と言う別の要素も入ってきます。
これは人が増えれば増えるほど難しくなります。
僕は大人数の場だと少し疲れてしまうと感じるのはこれが原因だと思っています。
長くなってしまいましが、何が言いたいのかと言うと、僕にとってサシで話すというのは1番着実なコミュニケーションの手段というだけで、友達だからサシでご飯に行くみたいな考えではないのです。

じゃあ、あなたの友達の定義は何?って聞かれると難しいのですが、ザックリとしたイメージだと
100万円を貸せる相手かな?って思っています。
今の僕にとって100万円ってとんでもない大金なので普段は持ってないですけど、その友達の為にどうにかして100万円かき集めてきて貸したいと思える相手が友達かな?
貸すってことは返ってこない覚悟が出来るって意味ですからね。
中々に覚悟がいることだと思います。

世の中お金じゃないって思いたいけど、友達をお金で定義した自分が少し嫌いになったところで、このnoteは終わろうと思います。

こんな小難しいこと考えないで、友達がたくさんいたら僕は音楽をやってこなかったと心から思えるような内容ですね。

書いといてなんですが、あまりこの文が読まれないことを願っています笑

グッバイ来世でまた会おう/インナージャーニー

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