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POI申請を愉しむ④

大分暑くなってきました。このシリーズ③までは広島県内の石碑を扱ってましたが、ちょっと趣向を変えて(いつか戻りますw)今日は東北地方のお話しです。

親戚の法事もあり、ちょっと東北地方に行ってました。コロナ云々あったけど、さすがに今回は行かなきゃなので大っぴらに言うほどでもない(それにGotoキャンペーン関係ないし補助も受けてない)と思いつつ、時間を見てあちこち探索してきました。

12あった申請の全てが生えました。モノがとてもいいものばかりで、全部紹介してもいいんだけど、さすがに読むの大変になりそうなので、一番エモかったものを…


巨石文化遺跡之碑

今回のイチオシは間違いなくコレです。名称がすごくないですか?それもそのはずストーンサークルの石碑なんです。有名なものだと大湯環状列石や忍路環状列石なんかが知られています。間違いなく当時、有名な発見の1つだったのですが概説書には載っておりません。何故でしょう?

大湯環状列石だと2つ並ぶ環状列石のラインが夏至の日の出を示していたり、冬至の日の入りを示すなど面白い構造をしています。そのラインは付近で最も大きな山の頂を指し示すなど多分に示唆的なんですね。

三内丸山遺跡にあったクリ材製の巨大構造物なども、夏至・冬至の関係が指摘されています。

そんな神秘的なものなので「UFOを呼ぶための施設だ」なんて言われたりしますが、実情で言うと環状に囲い季節を示すコミュニティ形態は縄文時代に一般的なものだったりします。特に縄文時代後期以降は寒冷化の影響なのか(狩猟も含め生産可能なエネルギー総量が減少するので祭祀が増える)目立つ傾向にあります。他に環状集落だとかウッドサークルといったものも存在します。



さて現物を見てみましょう。大正年間に山形県にある左沢線の敷設工事が進み、寒河江駅の建設工事が行われます。駅が建設されたのは左沢線開業、大正10年のことです。

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やや時期が下って、駅の開業に伴って移設させた盛り土の下から、環状に並んだ石が発見されます。昭和7年10月15日、地元寒河江中学校(現寒河江高校)の歴史科教員であった堀場義馨は、南部にある高瀬山古墳の見学の途上、偶然この環状列石を発見します。

当時は各地で環状列石が発見されていました。明治後半以降の発表が多いのですが、東北のそれは江戸期から知られたものが、北海道は開拓に伴って発見されたケースが多かったようです。注目されるのは大湯環状列石が(寒河江ストーンサークル発見の前年である)昭和6年に発見されている点です。寒河江ストーンサークルはまさに時流に乗った発見だったのです。

堀場は相次いで論考を発表します。石を一つ一つ実測し、安山岩・集塊岩・凝灰岩で構成されること、21個のうち原位置を保っているのは7つであること、特に忍路環状列石との相似性を指摘したようです。

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そしてこれが目に止まったのか、それとも堀場らが招聘したのかは判然としませんが、日本近代で最も有名な人類学者である鳥居龍蔵が遺跡の見学に来ることになります。鳥居は石が人によって持ち込まれた可能性を指摘、現地で縄文時代に特有の石匙と呼ばれる遺物(皮剥と原文にはある)が見つかったことで、これもストーンサークルだろうと結論づけます。

鳥居は当時60過ぎ、樺太・北海道・中国大陸・朝鮮半島などを渡り歩く、紛れもない東アジアを代表する人類学者でした。フィールドワーク調査に写真などの実写的記録を世界で最初に取り入れたといいます。それでなくても元東京帝大助教授の来訪に、町の人々は驚いたに違いありません。当時の新聞にもかなり取り上げられたと言われています。碑文にも「斯界ノ大家鳥居龍蔵博士ヲ招聘来寒講演…」と見えます。

更に翌々年、昭和9年にも鳥居は再訪し、講演を行います。碑文には三千年前にストーンサークルが作られたと鳥居が述べたとあります。この石碑は、再訪の際に建てられたものです。町の人はすごく嬉しかったのでしょう、町長以下町会議員全員の名前が列記されています。

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何名いるか数えてませんが、3列に渡って町長や町議会関係者全員が記名されています。この時期の道路啓開記念碑などでも全員が名前を入れることって多くないので、やっぱり嬉しかったんじゃないかなと思います。そら東北の寒村に(元とはいえ)東大の先生が何度も来たら驚くよね。


しかし、戦後になって当地の巨石文化は徐々に否定されていきます。昭和28年に國學院大學考古学研究室の大場磐雄さんが訪れ、現地を視察しますがストーンサークルであるかどうかの答えを留保します。ちなみに鳥居は國學院大學教授でもありました。鳥居は大場さんがストーンサークルの検証を行う少し前、昭和28年1月に没しています。

次いで昭和33年、東大考古学研究室の駒井和愛さんも来訪し、今度はハッキリと否定します。幾つかの試掘の結果、遺物が出土しなかったこと、石の下60~70cmで地山に達することなどが主な要因でした。

鳥居の時代から既に25年以上経過し、調査精度も手法も格段に進歩していました。当時の調査能力、またストーンサークルで盛り上がっていた時勢などからすると、仕方がないのかなぁとも思います。

結局、この列石がどんなものだったのかは、未だに結論づけられてませんが、縄文時代の環状列石ではないことが明らかになっています。

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このストーンサークルの南1kmのところに高瀬山古墳という円墳があります。冒頭で登場する教員の堀場は、当初この古墳を目指して歩いている道中、ストーンサークルを発見しています。

高瀬山古墳は古墳時代中後期のもので、県史跡として整備されています。ここにある石碑の背面を見ると「昭和八年八月」とありました。

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ちょうど鳥居が講演に来た翌年のことです。遠古の文化を少しでも知ってもらおうと、みんなが関心を持ってくれた時期に合わせて置いたんじゃないのかな?そんな気がしました。ストーンサークルは結局否定されちゃいましたけど、町の皆さんが色めき立ったことは残りました。

そんな流れがわかる石碑のお話しでした。

以上です。

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