見出し画像

神社仏閣巡りの記 (2) --入谷鬼子母神その1--

 前回ほおずき市のことを書いたので、今回はそのほおずき市の一週間前にやる朝顔市ことを書こうと思った。
 東京だとこんな感じで夏場の暑気払いで7月の1週目に朝顔市、その次の週にほおずき市をやる。ほおずき市は浅草寺でやるわけだが、浅草寺の裏手の言問通りことといどおりを西に進んでいくと入谷の交差点があり、そこの鬼子母神で朝顔市をやる。

言問通りと入谷の鬼子母神

ここの鬼子母神は

恐れ入り谷の鬼子母神

鬼子母神のダジャレ。江戸時代からあるらしい。
真源寺 - Wikipedia

なんていう駄洒落にもなっている。
 ところで、入谷の鬼子母神ということは他にも鬼子母神はあり、個々の他にも雑司ヶ谷にも鬼子母神がある。恐らく雑司ヶ谷の鬼子母神の方が有名なのかもしれない。

 鬼子母神の由来は割かし知られていると思うが、人の子を取って食う女の鬼がいたが、あるときその女の鬼がなくなってしまい、嘆き悲しんでいるとお釈迦様が現れ、その女の鬼に、お前が子供を亡くして悲しいのと同じように人間も自分の子供を失うと悲しいものであるから人の子を取ってはならないと諭されて、その女の鬼は改心して、人間の子を慈しむようになったという逸話からきている。雑司ヶ谷の鬼子母神は、その鬼は悔い改めて角が取れたっていうので、鬼の字の頭の点 (、) を抜いて書かれている。

 雑司ヶ谷の鬼子母神は点を抜くことをフィーチャーしてるが、確か入谷の鬼子母神も鬼の字の頭の点は抜いていたと思う。
 こちらのホームページを見ると確かに入谷の鬼子母神も鬼の字の点が抜いてある。俺の記憶は確かだった。

 さて、鬼子母神の朝顔市の話をしようとしているが、中々朝顔市の話が始まらない。始まらないついでにいうと、ここのお寺は言問通りに面している。言問通りっていうのは、どっちが始まりでどっちが終わりなのかよくわからないんだが、東京スカイツリーのあるとこから後楽園のあるあたりまでを結ぶ通りで、多分その名前は言問橋ことといばしにちなんでいる。
 なんで「東京スカイツリーのあるとこ」なんて書き方をしたかっていうと、ここはもともとは業平橋なんていう風流な名前の駅だったのが東京スカイツリーができてから東京スカイツリー駅にされちまったのだ。
 業平橋駅っていうのは、昔はここが東武の終点でこの業平橋駅、つまり東京スカイツリー駅が東武の浅草駅だった。当時も昔も東京っていうのは市内交通モンロー主義っていうやつが徹底してて、都心には私鉄は絶対入れない、特に、山手線の中には絶対私鉄の駅は作らせないっていうのを墨守している。私鉄各社は昔からなんとかその壁を破ろうとあの手この手で山手線の中に侵入しようとしてたが、東武はなんとかして隅田川を渡りたかったらしい。
 最初は浅草駅を今の東京スカイツリー駅にしておいて、後で隅田川を渡る橋をかけて、そこを浅草駅にして、元あった浅草駅は業平橋駅にした。
 この経緯がこちらの東武のホームページに書いてある。


平安時代に藤原氏の摂関政治の下で、歌人・在原業平は官位を取り上げられ無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われるのが旧駅名の「業平橋」です。2012年3月17日に「とうきょうスカイツリー駅」に駅名改称いたしました。

とうきょうスカイツリー駅|東武鉄道公式サイト (tobu.co.jp)

旧浅草駅は現在の業平橋にあり、現在の浅草駅は昭和6年に延長され「浅草雷門駅」として誕生しました。

昭和20年に正式に「浅草駅」に改称。

浅草駅|東武鉄道公式サイト (tobu.co.jp)

 さて、言問ことといと、業平橋駅の業平というと、在原業平のことを書いたといわれている伊勢物語の東下りが思い浮かぶ人もいるかもしれない。

名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

伊勢物語

 俺は高校の頃は古文が苦手過ぎて、今も苦手なので、感じかな交じり文で外国語を書いているように見えてしまいさっぱりわからないのだが、古文の先生が言うには、

 在原業平は何らかの理由で職を失い、関東に下ることになった。伊勢物語というのは在原業平のヤリチン人生を描いた物語であり、東下りは女と共に当時はクソド田舎の関東に駆け落ちするような話を書いたものである。
 在原業平の流れ着いた先は今の本所のあたりで、クソド田舎で何もなく、そこにいるのは蛮族であり、ふと都鳥という名前の鳥を目にすると、都鳥なんていう名前なんだからと都のことと、都に置いてきた女のことを思い出す歌である。

僕の高校のときの先生の国語のときの授業の思い出。
多分間違いが沢山あるのであまりあてにしないでほしい。

とかいう説明をしてくれた気がするがどこまで記憶が確かかはわからない。
 因みにその先生は関西出身の方であったのだが、嫌味のない関西弁で京の都を褒めたたえ、史実に基づき関東は昔はクソド田舎であったと懇切丁寧に教えてくれたものだった。いずれにせよ、もともとは江戸は太田道灌によって江戸城が開かれたが本格的な都市開発は半蔵門線の住吉のあたりに大阪の住吉神社のあたりに住んでる人々を徳川家康公が呼び寄せたことから始まり、大阪の佃から人を呼んだので江戸にも佃島があり、そこで流行ったのが佃煮であるというのは割と知られた話で、うちの親父はそんな事情で関東は東えびすの蛮族の住む地だとかいったり、祖母も生まれ育ちは東京だったが、年に一度の京都へのおのぼりさん旅行を楽しみにしていた。元来東京の人間ていうのは京大阪には引け目があるものである。

 さて、そういうことで、言問通りっていうのは、在原業平の伊勢物語の都鳥の歌の中に出てくる、「言問はば」に由来しているのだが、もう一つこの「言問はば」がらみの話をしておくと、この在原業平の歌にちなんだのが言問団子というお菓子で、東京スカイツリー駅から北の方に行って隅田川にぶち当たるところというか、言問橋のたもとあたりにある。

俺は無知な人間なので、言問団子も高校の授業のときにその伊勢物語の話をしてくれた先生に聞いたのが初めてだった。俺はその話を聞いた後に言問団子っていうのがどんなものなのか知りたくなり、祖母に言問団子を食ったことがあるか聞いたのだが、ないというし、父親も伯父伯母もそんなものは食ったことがないといい、やはり地元の名物は地元の人間はあまり食わないものなのかもしれない。

言問通り

 いつまで経っても話が始まらないが、言問通りっていうのは、東武の旧業平橋駅、いまの東京スカイツリー駅を出て、言問橋を渡って、浅草寺の裏手を入谷のあたりに進み、入谷の鬼子母神の前を通り過ぎて、鶯谷の坂を上がって、谷中の墓地のあたりに登る。この谷中霊園っていうのが寛永寺であり、徳川様のお墓があるのだが、やがて、そこを下っていくと千代田線の根津駅があり、根津からまた坂道を登っていくと今度は東大の本郷と弥生を隔てるドーバー海峡があり、さらにそれを下ると春日とか本郷のあたりに出る。なんというか、下町の東西を何となく横断する通りだ。

 なにやら色々と書いていたらそこそこの分量になってしまったので、続きはまた次回に回そうと思う。
 一旦ここで切るが、この与太記事が気に入ったらスキ❤ボタン押していただいたり、フォローしてくれたり、投げ銭を頂けると大変喜びます。

ここから先は

1字

¥ 100

 もし僕の記事が気に入ったらサポートお願いします。創作の励みになりますし、僕の貴重な源泉外のお小遣いになります。そして僕がおやつをたくさんかえるようになります。