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気が済むまで続けなければ終わらない

数年ほど前に僕は、たばことギャンブルから離れた。
やめたい人達からどうすればやめれますか?と聞かれるので、その気持ちを一生懸命話すけれど、誰に話をしても上手く伝わらないので いつしか話すのをやめてしまった。我慢か?意志か?どちらでもなかった気がする。

どうすればやめれますか?

どんなことでも、継続すれば習慣化してしまう。それは良くない習慣だと気づいていたとしても繰り返す。そう思うと習慣化したことを、習慣から外すことの方が難しい時があるんじゃないか?と思う。

決めて守れるなら、誰も苦労はしないし悩むことはない。ここで意志と我慢でやり切れる人はそのままやめていく。ただ、僕は十代から続いている習慣で年季が入っている。その習慣を外すには自分の中にそれ相応の理由が必要だと思っていた。

だけど、ある日本当にあっけなくそれは終わった。
なぜそう思ったのか。わからない、わからないけれど その日以来僕は、「それ」から離れた。

気が済んだ、ということを、人様に伝えることがなかなか難しい。やり方、考え方が浮かばない。なぜなら

気が済んだかどうかを確かめる方法が、他人にはない。

もういいか

「もういいか」そう思った。そう思った時から、どこか張りつめていたものから、ふっと力が抜けていった。あ〜気が済んだんだな、もう気が済んだんだな、やっと気が済んだんだな、本当に心からそう思った。全てをひっくるめて、自分を許そうと思えた瞬間だったのかもしれない。

「もういいか」そう思えれば気が済む、でもそう思えないから苦しい。ここで、「気が済む」秘訣のようなものを差し出せるなら出したいけれど。手に入れることがそれぞれ、各々でしかできない。ただ僕が気付いたことは

怒られても、嫌われても、憎まれても、
気が済むまで続けなければ、終わらない。

ブレーキは効かない

誰かが傷つくことがわかっていても、やめることができない。自暴自棄と罪悪感と間で揺れ動く。僕のようにギャンブルをしていた人なら、わかってもらえるかもしれない。勝ったら勝ったで「もっと」となるし、負けたら負けたで、気に入らない。どっちにしたって気が済まないし、終わらない。

例え誰かを傷つけても

終わらなかったものが終わる、どれほど傷つけても悲しませても、怒らせても正しいことを言われても、終わらなかったものを終わらせたものがある。だけどそれは、結局自分の外側から手に入ったものではなかった。

当時の世の中にあふれている正しさは、僕の救いにはならなかった。だから傷つき苦しんでいる人がいることがわかっていても、やめることはなかった。
罪悪感は募るばかりだったけど。

でも、それでも

誤解を恐れずに言えば、当時から今に至るまで僕は病気でも依存症でもなかったと思っている。そう診断されたとしてもおかしくはなかったかもしれないが、やっぱりそう思っている。何か名前を付けられていたら、きっと今も終わってないだろうぐらいに思っている。
続ける理由には、なったとは思うけれども。

馬鹿なことしたなぁと、今ならわかる。くだらないことにたくさんお金使ったなぁ、と思う。だから後悔はいっぱいある。ある意味後悔しかないかもしれない。
だけど、だけど

気が済んだ

波が引いていくように、あの瞬間に、「あ、もういいか」となった。あれ程終わらなかったものに、終わりが来る。終わるとは思えなかったことに終わりが来た。人の優しさにも、正しさにも、傷ついた涙にさえも、止まることがなかったのに。気が済んだら終わるんだ、と思った。
 
もう行かなくなって7年以上たった

今苦しくて終わりたくても終わらない人を庇うつもりも、今傷ついている人の我慢を強いるつもりもない。これは僕自身の体験談で、終わらせるための方法を書いたわけではない。どんなことがあっても、気が済んだかどうかを他人には確かめようがない。あれ程執着していたものから離れていく瞬間があったという記憶の話。

今現在傷つき苦しんでいるひとにとっては、到底納得できる言い分ではないことは、重々承知している。やったことを肯定したくて書いたわけではない

傷つけられた側の許せないことが、ある日、気が済んで終わるかどうかも、最後の最後まで傷つけた側はわからない。傷つけられた側が気が済めば、もしかしたら、もしかしたら、許せなかったことが許せる瞬間が、くるかもしれないと思うだけだ。

当時のことを思えばごめんね、と思う。。
そんなことを思いながら書いたnote

色々ありながらも、重ねてきた結婚記念日も29回目。
その日だけは、2人で食事をする約束。
1年に一度だとしても、ちゃんとお互いを労う大切な時間
これまでも、これからも。





             








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