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ローマ帝国と神聖ローマ帝国の違い ~三十年戦争、ウェストファリア条約の意味~

・「ローマ帝国」と「神聖ローマ帝国」

 「ローマ帝国」は3世紀ころまでにイタリア半島のラテン系ローマ人が地中海沿岸一帯に築き上げた大帝国で、「神聖ローマ帝国」とはそのローマ帝国(西ローマ帝国)が滅んでから遥か後の10世紀ころになって、イタリアのローマ教皇からローマ帝国の後継者として認められ、新たに「ローマ帝国」を名乗るようになったゲルマン系ドイツ人によって打ち建てられた国(独立した小国同士によって形成された領邦/連邦国家)で、領域も現在のドイツ周辺に存在し、今のドイツやオーストリア原形となった国として知られる。


・ローマ帝国(395年に東西に分裂。西ローマ帝国は476年に滅亡し、東ローマ帝国はビザンツ帝国として1453年まで続いた後に滅亡)ローマ帝国

・神聖ローマ帝国(10世紀ころから1806年まで)神聖ローマ帝国

 「神聖ローマ帝国」の前身は4~6世紀にかけて行われた「ゲルマン人の大移動」の際に、ゲルマン人のフランク族がガリア北方のゲルマニアに建国した「フランク王国」で、フランク王国は同じくローマ帝国領内に侵攻してゲルマン人たちが建国した他の国々(東西ゴート王国やヴァンダル王国、ランゴバルド王国など)と違い、ローマ教会が正統とする宗派に改宗したり、イタリアのローマ教会を脅かしていたランゴバルド王国を滅ぼすなど、ローマ教会と結び付いてヨーロッパで最大勢力にのし上がった国だった。
 そしてその功績により、ローマ教皇からローマ帝国の後継国とみなされるようになっていったのだが、当初は単に「帝国」とか「ローマ帝国」と呼ばれていただけだという。

 しかしその後、フランク王国は東西に分裂。が、それから10世紀になって今度は東フランク王国にオットー1世が出て、東方から進入してきた異民族のマジャール人を撃退するなど再び西ヨーロッパのキリスト教世界を守ることに大活躍してまたローマ教皇に認められると、改めて教皇から戴冠されて、以降、東フランク王国のドイツが「神聖ローマ帝国」として代々受け継がれていくこととなった。


・ローマ帝国とキリスト教の関係
 キリスト教はローマ帝国の支配下にあった「ユダヤ属州」内で生まれた宗教で、その後、西ヨーロッパ大陸一円に広まり、4世紀にはローマ帝国から公認され、やがて国教にまでなっていくのだが、当初はむしろ弾圧の対象だった。
 ローマ帝国自体は元々、守護神ユピテル(ジュピター)を主神・最高神とする多神教の国で、領内における他の民族の宗教もそのまま自由に信仰が認められていた。
 ローマ帝国は、創建当初の「王政」(前509年まで)から始まって、次いで力をつけた「平民(プレブス)」「貴族(パトリキ)」に対する平等な権利を求めて「身分闘争」を起こした末に王制を打倒して「共和政」(前27年まで)へと移行し、さらに「帝政」(前27年から)へと発展して行くのだが、その「帝政」も「プリンキパトゥス(元首政)」(284年まで)のと「ドミナトゥス(専制君主政)」(284年から)の時代に大きく分かれる。
 ローマは帝政へと以降してからも、「皇帝」(インペラートル)という身分はあくまで市民の中の「第一人者」(プリンケプス)という存在に過ぎず、その独裁的な権限も、それはスムーズな政治決定のために付与されたもので、就任にあたっても「元老院」の承認を受けなければならなかった。
 しかしその帝政も、やがて前線のローマ軍団を支える軍人たちによって皇帝の地位が力で争われる「軍人皇帝」時代の混乱から「3世紀の危機」と呼ばれる事態を迎え、皇帝の権威は失墜してしまう。
 失われた皇帝の権威を取り戻すべく、284年に皇帝となったディオクレティアヌス帝が始めたのが、隣国のペルシア帝国を参考に、ローマの皇帝は神であるユピテルと変わらない存在で、皇帝を神として崇拝することを強要する「ドミナトゥス(専制君主政)」だった。
 が、これに猛反発したのが、イエスをこそ真の神として崇めるキリスト教徒たちだった。そのためにこのとき、キリスト教はディオクレティアヌス帝によって徹底弾圧をされる。
 けれどもいくら弾圧をしても、キリスト教は消滅するどころか、ますます勢力を拡大させていってしまう。
 そこでいっそ、反対にキリスト教の支配力を帝国の統治の安定のために利用したほうがいいと考えるようになり、313年、コンスタンティヌス帝によって「ミラノ勅令」が出されて、キリスト教が初めてローマ帝国の公認の宗教とされると、さらに 392年には、テオドシウス帝によってアタナシウス派のキリスト教が国教として採用され、逆に他の宗教が禁止されるまでになっていくのだった。

 しかしその後、ローマカトリック教会はゲルマン人の侵入による西ローマ帝国の滅亡により、その保護者を失ってしまうこととなる。
 そこでローマ教会考えたのが、いっそ彼らゲルマン人をアタナシウス派のキリスト教に改宗させて、ローマ帝国に代わる新たなキリスト教の保護者とすることで、そしてそれに応えたのがフランク王国だった。


・「ゲルマン人の大移動」とゲルマン人諸国家の建設、および西ローマ帝国の滅亡

 フランク王国は、4~6世紀にかけて、ガリア北方のゲルマニアと呼ばれる地域に居住していたゲルマン人諸部族が、一斉に西ヨーロッパ大陸方面へと向かって侵入を開始した「ゲルマン人の大移動」によって打ち建てられた国々のうちの一つで、ゲルマン人はそれまで現在のドイツ付近に住んでいた民族だったが、さらにその東方から異民族「フン人」の侵入を受けたことで、弾き出されるようにして東西分裂後のローマ帝国領内深くへと入り込んでいくようになった。
 そして、やがてローマ帝国内部で「西ゴート王国」「東ゴート王国」「ヴァンダル王国」「ブルグント王国」「フランク王国」「ランゴバルド王国」「アングロ・サクソン七王国」など、次々と独自の部族国家を建国していき、最終的には西ローマ帝国を滅ぼしてしまう。

・ゲルマン人が西ローマ帝国内部に侵入して打ち建てた国々ゲルマン人の大移動


・「フランク王国」の台頭と分裂

 ゲルマン人たちも4世紀ころより、キリスト教の伝道者たちの布教によって多くがキリスト教を信仰するようになっていたが、彼ら信仰していたのは当時のローマ教会では異端とされたアリウス派だった。
 というのも、アリウス派のキリスト教は、325年に、自らキリスト教徒であることを宣言しキリスト教を公認の宗教としたコンスタンティヌス帝が議長となって開催されたキリスト教の「公会議」(キリスト教教会の全体意志を決定する重要会議)の場にて、アリウス派が異端とされてしまったため、ローマ領内で布教できなくなったアリウス派の信者たちがゲルマン人を相手に布教するようになったからだった。
 アリウス派はイエスを人間とみなすグループで、正統とされたアタナシウス派のほうは、イエスの神聖を認め、神とイエスと聖霊とを一体と見る「三位一体説」を主唱した。

 しかしそんな中、フランク王国メロヴィング朝の初代クローヴィスは、ローマ教会が正統とするアタナシウス派に改宗して逆にローマ教会との関係性をどんどん強めていくと、ゲルマン人国家が短命で滅んでいったのと対照的に、西ヨーロッパ世界で最大の勢力として発展していった。
 その後、フランク王国では宮宰(宰相)だったカール=マルテルが活躍し、732年にはイベリア半島からピレネー山脈を超えてフランク王国領内に侵入してきたウマイヤ朝のイスラーム軍を「トゥール・ポワティエ間の戦い」で破り、異教徒撃退の功績で名声を高めると、子のピピン(小ピピン/ピピン3世)の代には何と、フランク王国の正統であるメロヴィング家最後の王キルデリク3世を修道院に幽閉し、751年にフランク王国を乗っ取ってしまう。
 その際、ピピンは教皇ザカリアスに使者を送り、教皇から「権力のない者を王としておくより、権力のある者を王とした方が良い」との回答を得、それによりフランク王キルデリク3世の廃位が決まったのだという。そしてピピンが他のフランク族の貴族たちから新たなフランク王に選出され、メロヴィング朝に代わってカロリング朝を興すこととなったのだった。
 ピピンが教皇から新たなフランク王に選ばれたということは、ピピンがローマ教皇を守護する聖なる王になったということで、ピピンはその後、北イタリアに遠征してし、ローマ教会を圧迫していた同じゲルマン民族のランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪うなど、精力的にローマ教会のために活躍した。
 756年にはローマ教皇に奪い取ったラヴェンナの地を寄進(ピピンの寄進)し、これが、ローマ教皇領の始まりとなるものとなった。

 ピピンの後を継いだ子のカール1世(大帝)も非常に優れた人物で、カールは次々と周辺諸国に遠征してフランク王国の最大版図を築き、大帝と称された。
 774年にランゴバルド王国を征服して北イタリアを併合し、東方ではドイツのザバイエルン、ザクセンを併合。西方ではイベリア半島のイスラーム勢力と戦って領土を広げ、スペイン辺境伯を設置した。また、東方のアジア系アヴァール人を討つなど異教徒征伐にも力を入れた。
 そしてそうした功績が認められ、800年にローマ教皇レオ3世から直接ローマ帝国皇帝の冠を授けられると(「カールの戴冠」)、西ヨーロッパのキリスト教世界の守護者たるローマ帝国の後継者として正式に承認されることとなった。

 フランク王国はカール大帝の時代に全盛期を築いた後、大きく「西フランク王国」「東フランク王国」「中部フランク王国」に分裂するが、それらがそれぞれ後のフランスドイツ・オーストリア北イタリアを形作る国へとなっていった。

・フランク王国の分裂フランク王国の分裂


 三国に分裂してしまったフランク王国だったが、その後、東フランクにオットー1世という強い王が現われ、やはり異民族討伐に功績を挙げ、大帝と呼ばれた。
 955年には、「レヒフェルトの戦い」で東方から侵入してきたマジャール人を撃退。
 さらに961年、ローマに遠征し、北イタリアで教皇領を脅かしていたイタリア王のベレンガリオ2世を倒すと、イタリア王位継承権を持つ前イタリア王ロターリオ2世の未亡人アデライーデと結婚。
 962年、教皇ヨハネス12世から皇帝の称号と冠を受け(「オットーの戴冠」)、カール大帝以来、再びローマ帝国皇帝と擬せられ、以降、この東フランク王国が、いわゆる「神聖ローマ帝国」の出発点となり、その後は1806年に消滅するまで長く続く国家となった。


・「神聖ローマ帝国」に「神聖」の名が付けられるようになった理由

 しかし神聖ローマ皇帝は、信者たちとの結び付きを強めて帝国の統治に干渉するようになってきたローマ教皇との間で、領内の聖職者を任命する叙任権や地上での権威を巡って争うようになり(「叙任権闘争」)、神聖ローマ帝国に「神聖」という名が冠されるようになったのも、それは、1157年に、フリードリヒ1世(バルバロッサ)が、自らの皇帝の地位が教皇よりも上位にあり、神から与えられた聖なる地位であるということを示すために「神聖帝国」という国号を使うようになったのが始まりだという。


・「封建制」社会の成立と諸侯同士の対立

 
ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人社会は、ローマの帝政末期に現われた「恩貸地制度」と古ゲルマン人社会独自の「従士制」を合わせた「封建制」によって成り立っていた。
 封建制は、国王が「公」「伯」といった「諸侯」たちに領地(荘園)の保証をする代わりに、諸侯たちは国王のために軍役を務めるという制度。
 封建制は、9~11世紀にかけて、スカンジナヴィア半島やユトランド半島沿岸に現われ、新たに西ヨーロッパのゲルマン人社会へ侵入を繰り返すようになった同じゲルマン系のノルマン人(=ヴァイキング)たちから、自分たちの領地を守るために発達した制度だったという。
 しかし、封建制社会では王に対して諸侯たちの力が強大で、国王とは彼ら諸侯の中から選挙によって選ばれる諸侯たちの代表者というべき立場の存在だった。


・西フランク王国から「フランス王国」へ、東フランク王国から「ドイツ王国/神聖ローマ帝国」への変遷

 フランク王国は843年の「ヴェルダン条約」と870年の「メルセン条約」という二つの協定を経て「東フランク王国」「西フランク王国」「イタリア王国」の三国に分割されるが、相変わらず諸侯たちの力が強く、三国内ではそれぞれ小国分立のような状態となってしまう。

 しかしその中でも西フランク王国は、西フランク王国の正統だったカロリング家の王統が途絶えた後、パリ伯のユーグ=カペーが有力諸侯から推されて王位に就き「カペー朝」を開くと、その後は世襲による王朝が続き、この国が1789年のフランス革命まで約800年間に渡り存続し続けた「フランス王国」と呼ばれる国となった。

 が、一方、東フランク王国のほうは、911年にやはりこちらでもカロリング朝の王統が途絶えてしまうのだが、するとその後は世襲王朝ではなく、国王が代々、域内に存在する公国(バイエルン、ザクセン、ベーメンなど)や、地方伯領辺境伯領(ブランデンブルク、オーストリアなど)といった諸侯たちの内の代表者およびローマ教会の大司教たち(選帝侯)から選挙によって選ばれる「選挙王制」「ドイツ王国」となっていった。
 そしてオットー1世がローマ教皇から戴冠されて以降は、選ばれたドイツ国王が同時に「神聖ローマ皇帝」を名乗る「神聖ローマ帝国」と呼ばれる国になった。
 また、東フランク王国はフランク王国がカール大帝の時代に北イタリアのランゴバルド王国を滅ぼして得た権威をもって、皇帝がイタリア王を兼ねると宣言していたため、当初、ドイツ王はイタリア王との兼任で、同時に神聖ローマ皇帝として選任された。

 代々の神聖ローマ皇帝たちは、ローマ帝国の旧領回復という悲願から、特にイタリア半島の支配にこだわって何度もイタリア遠征を行ったが(「イタリア政策」)、そのために帝国内の支配力が弱まり、より一層、域内の諸侯たちの力を強化することともなってしまった。

なお「ドイツ(Deutsch)」という言葉の由来は、ゲルマン語の「theod」「thiud」「thiod」などの名詞に由来し、いずれも「民衆」や「大衆」を意味する言葉だという。

 中部フランクの「イタリア王国」はさらに酷く、カロリング朝の王統が875年に断絶した後はそのまま統一国王が選ばれることもなく、1861年にサルデーニャ国王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世を国王として再統一されまで、小国分立の状態がずっと続くこととなった。


・ローマ教皇とローマ皇帝との対立

 
ローマ皇帝とローマ教皇の両者は、帝国領内の聖職者の叙任権と地上における権威を巡って「叙任権闘争」と呼ばれる争いを繰り広げ、1077年には教皇の叙任権を否定した皇帝ハインリヒ4世が破門されて「カノッサの屈辱」事件が起こるなどした後、教皇側が優位を確立していき、最終的には1122年の「ヴォルムス協約」の成立により、皇帝が教皇の聖職叙任権を認めることで決着がつけられた。
 また、ローマ教皇はイスラム教徒に奪われた聖地エルサレムを奪還すべく「十字軍運動」を提唱するなどして、広くヨーロッパのキリスト教国に対する権威を高めていった。

 ローマ教皇は神聖ローマ皇帝の選出にあたり、フリードリヒ1世(バルバロッサ)フリードリヒ2世(大王)らを輩出したホーエンシュタウフェン家に対抗して、ヴェルフ家(オットー4世など)を支持して両者を争わせ、それにより「皇帝派(ギベリン)」「教皇派(ゲルフ)」と呼ばれるニ大派閥の抗争が生まれた。

 ホーエンシュタウフェン家は、フリードリヒ2世の子コンラート4世が1254年に病死したことによって断絶。
 教皇派はあらたなローマ王を選ぶも皇帝派に承認されず、その後20年に渡って神聖ローマ皇帝不在の「大空位時代」へと突入する。


・「大空位時代」の終結とハプスブルク家の台頭

 大空位時代は1273年まで続いて終わりを告げるが、そのときに新たな神聖ローマ皇帝として選ばれたのが、世界史では非常に有名なハプスブルグ家ルドルフ1世だった。
 そのときルドルフ1世は50歳の高齢で、しかもスイス地方の伯でしかなかったが、それがかえって選帝侯たちから扱いやすいと思われて選出されたのだという。
 が、ルドルフ1世は即位するや、自らの即位に不服従だったボヘミア王のオタカル2世を征伐してウィーンの地を手に入れると、以後はそちらのほうへと本拠を移し、ハプスブルグ家はオーストリア公の地位を手にする。

 その後、神聖ローマ皇帝の選出には、1356年に、皇帝カール4世から出された「金印勅書」によって新たなルールが定められ、それからは決められた7人の選帝侯(マインツ、ケルン、トリアの3宗教諸侯、ボヘミア王、ザクセン公、フランデンブルク辺境伯、プファルツ伯の4世俗諸侯)による選挙によって皇帝を選ぶことが制度化されるとともに、以降の神聖ローマ皇帝の座は、ほぼハプスブルグ家によって独占的に世襲されていくこととなった。


・神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)とフランス王国(ヴァロワ家)との覇権争いの激化

 ハプスブルグ家による神聖ローマ皇帝が世襲化されるようになったころ、小国分裂状態が続いていたイタリアを征服しようと、フランス王国(ヴァロア朝)が侵攻を開始して「イタリア戦争」(1494年~1559年)が勃発する。
 しかしイタリアの支配はこれまで長年、神聖ローマ帝国が悲願としてきたことであり、ここからイタリア戦争は、同じくイタリアの支配を狙う他のスペイン王国やイギリス王国なども巻き込んでの大戦争へと発展していってしまう。
 イタリア戦争の最中、神聖ローマ皇帝のカール5世(ハプスブルク家)はスペイン王を「カルロス1世」として継承し兼任することとなるのだが、これは、フランスを周囲から封じ込めようとするハプスブルグ帝国のフランス包囲網の形成でもあった。
 ハプスブルグ家は、数々の婚姻政策を用いて、ヨーロッパ全域に広大なハプスブルク帝国を築いていくようになる。
 そのためフランスと神聖ローマ帝国との関係は最悪のものとなり、イタリア戦争は、実質フランスのヴァロア朝と神聖ローマ帝国のハプスブルク家との、西ヨーロッパでの覇権を賭けた争いへ発展してくこととなった。


・神聖ローマ帝国の終焉、「宗教改革」と「三十年戦争」の勃発および「ウェストファリア条約」の締結。そして「封建制」から「主権国家体制」への時代の転換

 神聖ローマ帝国は代々、キリスト教およびローマカトリック教会を保護することを正義としてきたが、そのドイツ領内から、腐敗したローマカトリック教会に対する「プロテスタント」たちによる「宗教改革」運動が勃発してしまう。
 1517年、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の大改修の費用を得るためという名目で、ローマ教会がドイツで「免罪符(贖宥状)」を販売したことに対し、ルター『九十五ヶ条の論題』を発表して教会を厳しく批判し、そこから「宗教改革」が始まった。
 「免罪符(贖宥状)」はいわば、金さえ払えば罪が消え去り天国行きが保証されるというものだったが、「信仰と善行によって救済される」という理念を持つ教会側は、教会への寄進や喜捨の善行をすることでその人は救われるのだと主張した。
 けれどもその考えでは、人間が自分の救済のために神を利用することにもなってしまう。ルターは「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)のだと説き、ローマ教会の教義と激しく対立することとなった。

 カトリック教会の保護者たるローマ皇帝にってもこれは大問題だったが、当時、神聖ローマ帝国は隣のフランスと争いつつ「イタリア戦争」(1494年~1559年)を行っている最中で、しかもそこへオスマン帝国の侵入を受け、ウィーンが包囲されてしまう。(「ウィーン包囲」1529年)
 そこで、皇帝のカール5世は、一時的にルター派の信仰を容認してオスマン帝国の撃退に成功するが、その後はまたすぐにルター派を禁止・弾圧してしまう。
 これに怒ったルター派のプロテスタントたちは「シュマルカルデン同盟」(1530年)を結成して、「シュマルカルデン戦争」(1546年~47年)を起した。
 これに「アウグスブルグの宗教和議」(1555年)が結ばれ、プロテスタント(ルター派)の信仰が認められる決定が下されるのだが、ただしその決定権は領主にあって、個々の農民たちに信仰の自由はなく、領主たちの信仰に従わなければならなかった。
 ところがこの決定が後々、神聖ローマ帝国の寿命を自ら締める結果となる。
 というのも、領内に対する信仰の決定権を領主たちが握る権利を持ったことで、それが「領邦教会制」という各諸侯たちの領地に対する支配権を強化することとなり、同時に神聖ローマ皇帝の諸侯に対する支配力を著しく弱める結果へとつながってしまったからだ。

 「アウグスブルグの宗教和議」を通した「領邦教会制」の強化は「封建制」そのものを衰退させ、代わって領内の諸侯たちの権限が強化された「主権国家体制」への移行を促す契機となった。

 一方、ドイツの隣のスイスで巻き起こったカルヴァン派による宗教改革運動の勢いはさらに凄まじく、またたく間に領外へ広まり、イングランドにおけるピューリタンや、フランスにおけるユグノー、ネーデルランドにおけるゴイセンなどといったカルヴァン派の急進的プロテスタントを爆増させると、ヨーロッパの各地で領主たちを相手にした熾烈な宗教戦争が巻き起こる展開となっていった。
 カルヴァンが唱えた「予定説」では、「魂の救済は人間の意志や善行とは無関係」であり、しかもそれはすべて「既に神によって決められている」とされ、免罪符などの行為を通して人は救われるとしたローマカトリックに対し、人間の行為の無意味さを説いたルター派よりさらに厳しく、カルヴァン派では「神の絶対性」がより徹底的に強調されることとなった。
 さらにカルヴァン派では予定説の理念により、その人たちが今している仕事はどれも神によって与えられた「天職」になると考えたため、それまでヨーロッパのキリスト教社会では倫理的に卑しい金儲けだと思われていた商行為に対する認識が改められ、勤勉と倹約による蓄財行為がむしろ「神の説く隣人愛の実践」になるとして、大いに奨励されるようになった。
 そのため、イングランドやフランス、ネーデルランドなど、商工業の盛んだった地域で爆発的にカルヴァン派が広まる結果となった。

 カルヴァン派の「予定説」の理念は、「近代資本主義」を誕生させるきっかけになっただけでなく、神の絶対性の前に人間の力の無力さを説くその思想は、それまでは絶対と思われていた国王や貴族たちの権威を剥ぎ落とし、神の前では王侯貴族も庶民も何も変わらないとする立場の「近代民主主義」を誕生させ、古い王制による封建社会を新しく生まれ変わらせることとなった。


"世界大戦"となった「三十年戦争」の勃発

 神聖ローマ帝国領内では、アウクスブルクの和議以降も、新旧両派は自らの勢力拡大に励んでいた。
 ボヘミア王国ではプロテスタントが優勢だったが、1617年に、熱烈なカトリック教徒で対プロテスタント強硬派として知られていたハプスブルク家のフェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に即位すると、プロテスタントに対する弾圧を開始。
 これにボヘミアのプロテスタントたちが反乱を起したことをきっかけとして、その後、30年にも渡って続けられる「三十年戦争」(1618年~1648年)が勃発することとなった。

 三十年戦争の特徴は、同じキリスト教同士による宗教戦争だったという点と、領内だけでなく、他の外国からも多くの勢力が参戦した「世界大戦」になったという点。
 この戦いにかかわった国や諸侯の数は、66を数え、この国際紛争の結果、ドイツとチェコの人口は戦前の2/3にまで激減したという。


・「ウェストファリア条約」(神聖ローマ帝国の死亡証書)の締結により、ローマカトリック教会および神聖ローマ帝国がそれぞれの国家の上に立って君臨する時代が終わり、個々の国王や領主たちが宗教の信仰の自由も支配する「主権国家体制」へと移行する新しい「国際秩序」が確立される

 1648年に三十年戦争は終結し、「ウェストファリア条約」が締結されるが、世界の各国が参加した大戦だったため、この条約は世界で初めて制定された「国際秩序」となった。
 どのような新しい国際秩序が形成されるようになったのかというと、それまでの西ヨーロッパ世界では、アタナシウス派のローマカトリック教会が、ヨーロッパ内のそれぞれの国々の王や領主たちの上に君臨し、破門などといった処置によってその国の統治にも深く関わるという体制が築かれていたのだが、それが崩れ、以降はそれぞれの国の国王や領主たちが、領内における宗教の信仰の自由を認めるかどうかの権限まで一元的に支配するという「主権国家体制」が構築されることとなった。
 またこれは、現代の「政教分離」へとつながっていく一連の出来事のうちの一つでもあった。

 神聖ローマ帝国もまた、カトリック教会の威光を背景に、全ヨーロッパを支配する帝王としてその覇権の獲得を目指していたのだが、「三十年戦争」の敗北により、その野望を打ち砕かれる結果となった。
 「ウェストファリア条約」は歴史上、「神聖ローマ帝国の死亡証書」となったと言われるほど、内容的には神聖ローマ帝国にとって利権の数々を失うこととなっただけでなく、以降はもう、神聖ローマ帝国は存在していても諸侯に対する支配力をほとんど失った、有名無実化した存在へと変わり果てていってしまうのだった。

 ウェストファリア条約の具体的な内容でいうと、先ず第一に、アウクスブルクの宗教和議の決定に加え、カルヴァン派の信仰も認められるようになった。
 プロテスタントの撲滅を目指した神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は大戦の最中に亡くなっていたが、結局、新教の勢力の信仰を止めることはできなかった。
 新教を認めるか旧教を認めるか、その選択権は変わらず諸侯たちに握られていて、しかも、そのうえ今度の新しい条約では、帝国内の領邦に対し「領邦主権」までが認められることとなった。
 もともと当時、神聖ローマ帝国の諸侯たちは「領邦」と呼ばれる半独立体だったが、その彼らに改めて「主権」が与えられたことにより、以降はもう神聖ローマ皇帝には、例えば自ら戦争を始める権利もなければ、終わらせる権利もなく、それは帝国領内の各諸侯たちに握られているという状態になり、神聖ローマ帝国はもはや単なるお飾り、名前だけの実態のない存在と化してしまったのだった。

 また、これをきっかけに、「封建制」による皇帝の諸侯たちに対する支配権が弱められるとともに、個々の領主たちがそれぞれの領内における様々な権利を一元的に支配するという「主権国家体制」化が進む結果となった。
  それまでの封建制では諸侯たちに対して国王の力が弱かったが、主権国家化が進んだことで、以後は力をつけた国王たちによる「絶対王政」の時代へと移り変わり、そしてさらにその後の「市民革命」を経て、国王が一手に握っていた権力が今度は国民の側の手に渡り、さらなる「国民主権」の主権国家時代へと移り変わっていくこととなる。

 また、領土的な面でいうと、新教徒側に立って参戦したスウェーデンが北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得し、フランスもハプスブル家憎しでカトリックでありながら新教徒側に立って戦い、その結果、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得することとなった。

 そして、オランダと、スイスがそれぞれ独立国として承認されることとなった。
 オランダはこの戦いよりも以前から、スペインハプスブルグ家の支配から抜け出すための「八十年戦争」を戦っていた最中で、この条約によりオランダは晴れて、その悲願を果たす結果となった。
 またスイスも、ここはハプスブルグ家の出身地だったのだが、しかしオランダ同様、スイスでもハプスブルグ家の支配から逃れるべく、1291年のころよりずっと、三つの邦が「盟約者同盟」という同盟を結成してハプスブルグ家に対抗するなどといった運動が続けられていた。
 三十年戦争の最中、スイスは中立を宣言していたが、戦後、独立国として承認されることとなった。

 第一世界大戦は初め、その戦争に介入することを決めた各国にとって、「すべての戦争を終わらせるための戦争」だと言われた。
 オーストリアとセルビアの対立を口実に、それぞれの国同士が抱える政治問題や外交問題、領土問題を一気に解決するための戦争を起こすため、それが利用された。
 第一世界大戦に参加した当初、各領主たちは皆、最初のクリスマスまでに戦いを終わらせるつもりでいたという。

 そういう点で、同じように三十年戦争もやはり、反ハプスブル家を目論む各国の諸侯たちが、すべての政治問題を解決するための戦争として利用された戦いとなったが、その惨禍もまた同様に夥しいものとなった。

 戦後、ハプスブルグ家は神聖ローマ皇帝としての実権力を失い、以降は彼らの本拠となるオーストリアの皇帝といった存在へと化していく。
 神聖ローマ帝国自体は、三十年戦争後も150年以上存続し続けるが、ナポレオンとの戦いでフランツ2世が神聖ローマ帝国皇帝の退位したのを最後に、二度と復活することなく、そこで消滅となってしまうのだった。


まだ記事は少ないですが、ここでは男女の恋愛心理やその他対人関係全般、犯罪心理、いじめや体罰など、人の悩みに関わる心理・メンタリズムについて研究を深めていきたいと思っています。