【 落語の雑則 51】 登場人物は皆自分自身
スタニスラフスキーは
「俳優の仕事」第三部で
演技の客観性を説いている
で
俳優は演技を自分以外の者の表現として
見られている
扮装し表現する俳優が
客観的に見えているのは登場人物である
対して
扮装せず表現する落語家が
客観的に見えているのは落語家である
落語家は演技を自分自身の表現として
見られている
だから
落語家の演技は俳優の演技と違う
それは
俳優はそこに自分以外の者を見せるが
落語家はそこに自分の中の一面を見せるからである
なので
落語の登場人物は全て自分の中のある一面の姿である
ならば
落語の演技を磨くとは
自分の中の様々な面を見極め
それらを一つ一つ磨きあげることに
他ならないだろう
落語を通して自分を知る
気付かなかった自分に出会う
新しい自分を表現する
そんな落語を追究したい
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ここがじつに難しいんです。上手い役者さんが落語をやっても、ねっ、と思うのは、演技が上手いからそうなっちゃうんですから。落語家と役者は、例えれば、同じ運搬するんでも車と船ぐらい違うんです。見せてるものが違う。でもでもでも、だからといって、私私じゃこんどは話じゃなくなっちゃう。落語はじつに奥深いなあと思います。
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落語を考える事は限りなく深い森の姿を探求する旅のようなものです。森の中にいる私には、森の外から見ての意見で、見えないものが見えてくると思います。そして、一人より二人、二人より三人と、誰かと一緒に考えて行きたいです。スキ、コメント、サポート、みんな大歓迎です。よろしくお願いします。