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本棚の前にある日常。

司馬遼太郎

ロビン・ウィリアムズ

黒板五郎(田中邦衛)

桜井和寿

(敬称略)

これまでの人生において、私が勝手に「先生」と慕う四天王である。その中で唯一、今も現役で突っ走っているのが、モンスターバンドMr.Childrenのヴォーカル桜井さんだ。「そんなこと言ったら五郎さんだって、今も麓郷の山の中で慎ましい生活を続けているはずだ!」という声が聞こえてくるのだが、話がややこしくなるので今は無視することにする。秩序のない現代にドロップキックである。別に全然うまくないのである。

初めて聴いたMr.Childrenは、実家にあった誰が買ったかも分からない8cmシングルの『名もなき詩』(1996年リリース、10thシングル)だった。

舌をベロンと垂らす桜井さんと、その舌に書かれた「NO NAME」の文字。当時8歳の私にはややインパクトが強かったが、不吉な感じのするジャケット写真とは裏腹に、「ジャカジャーン」という爽やかなアコギの音から始まるメロディーには中毒性があって、何度も繰り返し聴いた。

聴いたことのある人なら分かるだろう、あの特徴的なCメロの”早口言葉”も、歌詞の意味さえ分からないまま、完璧に歌えるようになるまで練習した。それなりに経験を積んだ今、何となくこの曲の意味を理解出来るようになった気がする。

数年前、意中の女性に宛てて書いた手紙の冒頭に、

「この手紙はあなたに向けた、私にとっての『名もなき詩』です」

と記した。どんな売れっ子脚本家でも思い付かないだろうこのロマンティックな表現は、傍目にはかなりイタいのだろうが、当時の私からすれば、自分の気持ちのすべてを込めた、大真面目なラブレターだった。

完全な偏見だが、私の見解ではMr.Childrenファンの、どれだけ少なく見積もっても8割以上は、「自分の結婚披露宴でMr.Childrenのどの曲を流すか考えたことがある」。

私がそうだ。結婚する予定はない。そもそも相手がいない。万が一結婚出来たとしても、大勢の人たちの前で自分が主役になるのは死ぬほど恥ずかしいから披露宴などやりたくない。

だけど、考えてしまうのだ。入場、二人の生い立ちを辿ったVTR、キャンドルサービス、スピーチ、エンドロール……。余興で自ら友人とともに演奏する曲も、頭の中にはすでにある。先日YouTubeで、Mr.Childrenの楽曲が使われている、まったく知らない新郎新婦の結婚式動画を観ながら、いつの間にか涙を流していた。昔から、ああいう内輪的な動画に一体どこの誰が感動するのだろうと思ってきたが、他でもない、私だった。

そんな収集のつかない妄想をさせるほど、人生のいかなる場面においても必ずささる音が、声が、フレーズがある。Mr.Childrenがモンスターバンドたる所以であり、桜井さんが(私の中の)四天王に名を連ねる所以なのだと、私などは思う訳である。

話は変わるが、今でこそ人前で涙を見せることはほとんどなくなった。だけど幼いころは、泣くことが自分の欲求を満たすほとんど唯一の方法だと思っていた。『おっとっと』のこともその一つだった。

丘珠空港や新千歳空港との直通便が就航するまで、故郷利尻島から札幌へ出る主な手段は汽車だった。稚内から札幌までの約6時間の道程は、子どもにとって限りなく暇な時間が続く。まだ豊富(トヨトミ)、音威子府(オトイネップ)辺りまでは、車窓から見える広い牧場に放牧された何頭もの牛たちが、のんびり寝転がってる様子を楽しめる。

大人ならこの辺りでビールでも飲んで目を閉じるだけで、いつの間にか札幌に到着していそうなものだが、子どもの場合そうはいかない。元気があり余っている。同じような景色にはすぐ飽きる。でもって腹が減る。

途中の駅の売店でお菓子や飲み物を買う時間はないから、食料はあらかじめ稚内駅のキヨスクで買っておく。その日も母が買っておいたお菓子を袋から取り出した。すると近くの席から別の香ばしい匂いが漂ってくるのに気付いた。

『おっとっと』だった。森永製菓が製造・販売・発売している魚介類の形をしたスナック菓子である。それを私と同じくらいの子どもが美味そうに頬張っていた。

別に高価なお菓子ではない。だけど何ゆえ子どもは、特に同年代の子どもが持っているものが、ことごとく貴重な代物に見えてしまうのだろう。

「お母さん、あれ食べたい」

「おっとっと?無いよ」

「あれ食べたい!」

「無いって、お菓子あるしょ」

「あれ食べたい!!」

「無いって!買ってないんだから」

「あれ食べたい!!!」

「いい加減にしな!しつこいと次の駅で降ろすよ!」

こうなるともうひたすら号泣と怒号の応酬である。酒を飲んで寝ている同じ車両の全乗客が目を覚ますほどだった。

怒るのにも疲れ、呆れ果てた私の母はどうしたか。『おっとっと』を食べているその子とその子の親に、

「ごめんなさいね。うちの子どもにちょっとだけ分けてもらっていいかい?ごめんなさい、ごめんなさい」

と頼み込んだのである。車両中から向けられる冷ややかな視線に耐えながら。

快く分けてくれたその子の『おっとっと』を、私はお構いなしにむしゃむしゃ食べた。まるで最初から自分のものであったかのように。

最近になって、母がその時のことを回想して言った。

「あんなに恥ずかしいことはなかったね。あれ以来お前と汽車に乗るときは、何があろうと、『おっとっと』だけは忘れずに買ったわね」

Mr.Childrenに『横断歩道を渡る人たち』(2008年リリース、32ndシングル「GIFT」のカップリング曲)という曲がある。アルバムにも収録されておらず、タイアップもされていないから、ファンでなければ聴いたことがないという人がほとんどだろう。

車を運転中の「僕」が、横断歩道を渡っていく様々な人たちを眺めながら、その日常風景に過去や未来の自分を重ねていく、という曲だ。

途中、こんな歌詞がある。

イライラした母親はもの分かりの悪い息子の手を引っ張って
もう何個も持ってるでしょ!?と おもちゃ屋の前で声を上げている
欲しがっているのはおもちゃじゃなく愛情で
拒んでるのも「我慢」を教えるための愛情で
人目も気にせず泣いて怒って その親子は愛し合っているんだ

この曲を初めて聴いたとき、思い出したのは『おっとっと』のことだった。もちろん、この歌詞のように自分と母との思い出を美化するつもりはない。今思い出してもクソ生意気な小僧だ、と自らを省みることしか出来ないでいる。ただ、そのような風景を客観的に見たとき、それが親と子どちらにとっても、ひとつの「愛情」なのだと捉えられる桜井さんは、凄い、そう思った。

感染が少し落ち着いた11月。年末が近づいていることも手伝って、勤務する本屋にも少しずつ客が戻り始めた。特に担当する児童書売場は、休日ともなれば多くの親子連れで賑わいを見せている。

もちろんまだまだ油断は出来ないし、一昨年以前の売上に戻るまでにはもうしばらく時間がかかりそうだ。それでも徐々に、以前のような店の日常風景が見られるようになってきた。

嬉しいのは、そして懐かしいのは、単に本を買いにくる客が増えたことではない、と最近になって気付いた。

『バムケロ』シリーズが置いてある棚を眺めながら、

「あ〜、これ私の実家に全部あるよ!」

と、自慢気に話すおねえさんと、

「マジで?すげぇ」

と、特に興味は無いのだろう、そんなことよりも彼女と一緒にいられるこの時間が嬉しいに違いないおにいさん。

「アンパンマンの本どこだろうね〜?」

と、グズっている小さな妹の手を優しく引きながら、目的の棚を探してうろうろしている、これまた小さなお姉ちゃん。

とっくに飽きている我が子に気付かず、隣に座って一心不乱に絵本を読み聞かせている父親。

この日常だ。本が媒介する、この何気ない日常の風景がひどく懐かしいのだ。その風景を見られることがとても嬉しいのだ。本棚の前に、それぞれの日常のあることが。「愛情」のあることが。

一人の男の子がいた。小さな手には不釣り合いの大きな絵本を大事そうに抱えて、母親に近づいていく。母親は少し苛立ったように、

「だめだめ。今日はもう買わないよ」

と拒む。

「やだ。これ買うの」

男の子も食い下がり、ついにはそのまま地べたに座り込んでしまった。

「知らない。もうママ行くからね!」

「やぁぁだぁぁ!」

「じゃあね〜」

おいおい、本当に行っちゃったよ。

「やぁぁぁぁだぁぁぁぁぁああ!!!」

大事にしていた絵本を平台の上に放り捨てて、母親の後を必死で追いかける男の子。

私は納品の手を止めて、放置された絵本のホコリを軽く払い、元あった場所に戻す。そして、追いついてきた男の子の頭を優しくなでながら、しっかりとその手を握って一緒に歩き出す母親の後ろ姿を見て、また、その曲を思い出す。

昨日の僕が 明日の僕が 今 目の前を通り過ぎていく

泣くほど欲しいものの中に本があるってさ、すごく素敵じゃん。お母さんの愛を受けて育った、何よりの証だと俺は思うよ。

俺なんて、『おっとっと』だから。

そんなことを考えて苦笑しつつ、本棚の前にある別の日常に、私はまた目を凝らしている。



※歌詞は、『Your Song』(Mr.Children、2018年、文藝春秋発行)より引用しています。


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