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エピソード

職場の目と鼻の先に、社員2人だけの小さな出版社がある。
名を寿郎社といい、2000年に創業して以来コツコツと本をつくり続けている。

去年の暮れに新刊を追加注文したところ、翌日その本がレターパックで店に届いた。
距離が近いため直接持ってきてくれることが多いのだが、この時は受領書返送用の封筒が同封されていた。
どうせなら昼休憩のついでにと、伝票を持って事務所を訪ねた。
社長の土肥さんが、1人で作業をしていた。

「わざわざすみません。新刊の準備が立て込んでいて、ろくに外出もできないんですよ」
悪いと思い伝票だけ渡して失礼しようとしたが、ここでお弁当食べて行ってください、と言うのでお言葉に甘えることにした。

最近週に何度か手伝ってくれるアルバイトを雇ったこと、新刊の書評が紹介された新聞のことなどを聞いているうち、11月に大手出版社から刊行された、ある新刊エッセイの話題になった。
ウチの店ものすごく売れてるんですよ、と伝えると、土肥さんの声のトーンがわずかに変わった。
「そうですか・・・。それは、良かった。本当に良かった。いや嬉しいな」
静かに、でも顔いっぱいに笑みを湛えて、彼は何度もそう言った。

札幌に住むその女性エッセイストは、かつて寿郎社からデビューした。
ウェブ上に身辺雑記を綴っていた彼女を土肥さんが見出し、ペンネームをつけて本とともに世に送り出した。
デビュー作は、最初はほとんど売れなかったらしい。
書店の棚に埋もれヨレヨレになってしまっていたその1冊を、あるとき偶然見つけた某新聞社の編集者が絶賛し、発売元である土肥さんに連絡をくれた。
間もなくして、その新聞社が発行する週刊誌での連載がスタートしたという。
以降彼女の知名度は徐々に上がっていき、著名な作家や芸能人のファンもついて、今や複数の大手出版社から新刊が出るほどの大人気作家となった。

他社で出版された本がどれだけ売れたとしても、直接彼のもとにお金が入ってくるわけではないし、ましてや会社の規模が大きくなるわけでもない。
外出もままならず、事務所にこもって作業に追われる日々は続いている。
でも彼が噛みしめるように「良かった」と微笑んだとき、なぜだか分からないけれど、ここに小さな出版社が長年本をつくり続けて来られた理由があるような気がした。
同時に、彼の元でデビューした作家、北大路公子さんはなんて幸せな人だろうと思った。

今年1月、田所敦嗣さん著『スローシャッター』発売記念トークイベントが開催された。

発売に先立ち、発行元であるひろのぶと株式会社に田所さんの選書フェア企画を打診したところ、快く引き受けてくれた。
それどころか、ウチでイベントができないか、というありがたい話までいただき実現した。

大盛況に終わったイベントの後、登壇者の3人が喫煙所で一服するのを待ちながら、事務所でひろのぶとの加納さん、編集の廣瀬さんと何気ない会話をした。
「『スローシャッター』を書店の文芸書売場に置いてもらうにはどうしたらいいでしょう?」
2人からそんな相談を受けた。
紀行エッセイという響きから、旅行・地図ガイドのコーナーに置かれていることが多いらしい。
簡単そうで、とても難しい質問だった。

著名な作家の新刊、またはテレビやSNSで話題になった本は、極端に言えばどこに置いたとしてもある程度は売れる。
対して新人作家、しかもできて間もない出版社の本は、置かれるべき場所に置かれなければ埋もれてしまうことが多い。

「書店でたまたま出会った本が人生を変えた」
という話をよく耳にするけれど、読者の偶然ばかりに頼っていても出版社は保たないだろう。
来店する人の目にどれだけ触れさせることができるかは、出版社の存続にも直結する。

しかし一方で、ダンボールを開けて表紙や帯を初めて見た書店員が、「旅の本だから地図ガイド売場」となんとなく行き先を決めてしまうのは、おそらくそう珍しいことではない。

リアル書店の売上が漸減し、多くの店舗が少人数での運営を余儀なくされている。
そんな中でも、全国に約3000ある出版社から毎日約200点の新刊が出る。
悔しいことだけれど、書店員が1冊1冊吟味している余裕がなくなっているのも事実である。

書店の現状を考えると、すべての出版社の思いを棚に反映させるのは難しい。
だから2人の問いに対して、各書店のスタッフに読んでもらうことだとアドバイスするのは、あまりに安易すぎる気がした。
宿題にさせてください、と答えを濁しながら、自分の無力さを呪った。

翌朝早くから、彼らは市内の書店をいくつも回っていた。
慣れてはいないだろう北海道の冬道を、注文書を携えて走った。
その様子をツイッターで見ていて、涙が出そうになったのを覚えている。
理由は分からなかったが、多分緊張のあまりイベントで言い忘れていたことと関係している。

『スローシャッター』を初めて読んだとき、自分は旅する側ではなく、旅する人々を迎える側の存在なのだと思い知った。

書店員には出張がほとんどない。
あったとしても大抵は別の店舗の応援か、本社での研修くらいのものだろう。
列車や飛行機に乗って取引先に会いに行き、商談や食事をした経験は、書店員になった10年前からの記憶を辿っても一度か二度だ。
逆に、これまで店を訪れた取引先は数え切れないほどある。

東京の夏に比べてこっちは快適で最高だ。
大寒波のせいで飛行機が飛ばず、帰れないかもしれない。
近くにうまいラーメン屋はないか。
いつの間にかそんな雑談がメインになり、肝心の商談がついでになっていることもある。
日々の仕事で見過ごしてしまっている本は山ほどあるけれど、たとえ些細でもそうしたエピソードが積み重なった出版社の本は不思議と目について、忘れることが少ない。

私たちはエピソードを求めていたのだと、最近になって思う。
感染症が全国の書店にも暗い影を落とし始めたあの時期、誰もいない店内で私たちが待っていたのは、本を買い求める人たちだけではなかった。
厳しい状況下で忙殺される多くの書店員も、心のどこかに同じ思いを抱いているのではないだろうか。

ニールズや「コテレー」のオーナー、フェイにフレックにロアン。
作品に登場する全員に共通していたのは、田所さんが見た光景が、彼や彼女たちにとっては当たり前の営みである点だ。
お互いの営みを敬うことで当たり前が特別なものになり、いくつもの珠玉のエッセイを生んだ。
『スローシャッター』はそんな本だった。

私には田所さんと同じ仕事はできない。
でも彼が世界で出会ってきた人たちと同じように、訪れる人たちと向き合うことならできる。
本のつくり手と書店とのエピソードの積み重ねは、いつかきっとベストセラーを生むと信じている。

別れ際、しんしんと雪の降る道を田中さんと並んでしばらく歩いた。
さっきまでいたバーで、左目のコンタクトレンズがどこかに行った。
ぼやけて見える雪道を転ばないように歩きつつ、生まれたばかりの出版社代表にかけるべき言葉を探してみたけれど、レンズ同様一向に見つからない。
お互いに黙ったまま、徐々に札幌駅が近づいてくる。

田中さんが後ろを振り返った。
つられて同じ方向を見た。
数メートル先、彼とともに1冊の本を届けてくれた4人の旅人が、雪の中でじゃれ合っていた。
「何をはしゃいどるんや」
優しく叫んだ田中さんに、寿郎社の社長土肥さんが重なった。
視界がぼやけているせいだったかも知れないけれど、その慈しみに満ちた声は、これから先何年も本をつくり続けていける理由になりそうな気がした。
同時に、彼の元でデビューした作家、田所敦嗣さんはなんて幸せな人だろうと思った。

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お2人が書いてくださった文章に、私は何もコメントできなかった。140字で収められる気がしなかったからだ。読者やファンとしてでなく、お互いに敬い合える仕事相手として接してくれたことに、ようやく感謝を伝えることができる。


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