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とはずがたり                            『翼を授かった日』

 息子のスマホ騒動で、私が、‟モノ” を擬人化して捉える傾向があること改めて思い至った。

 私は、スマホ には何の思い入れもない。ただの道具だ。
私が 擬人化してしまう ‟相棒”と言える ‟モノ” は、自動車だ。

 車は私にとっては、相棒中の相棒だ。運転免許証を手にしてから今日まで、およそ30数年、私が車の運転をしなかった日は、数えるほどしかないと思う。出産の翌日、産院で「今日は天気がいいから、家に帰って洗濯をしてきたいが、車で行くから、行ってもいいか?」と訊ね看護婦さんに怒られた。入院中の5日間は、車に乗ることは出来なかった。

 運転免許を取ったのは19歳の時だった。もらったばかりの免許証を持って、さっそく家の車を運転してみた。その時の実家の車は、マツダボンゴ。
ギアが、ハンドルの脇から突き出しているタイプのやつで、自動車学校で乗っていたセダンとは全く構造が違う。どうやってギアを入れるかわからないので、ガチャガチャやって、やっと入ったローギアで家の近所を一周した。これでは、ちっともスピードが出ないのでいったん家に戻り、もう一度ガチャガチャやって、なんとかギアチェンジ出来るようになり、また外へ。気が付くともう外は真っ暗になっていたのだが、自動車学校では昼の受講しかしなかったので、「ライトを点灯する」と言う事を知らず、真っ暗な田舎道をライトをつけず、良く見えないのでフロントガラスに顔をくっつけるようにしながら、1時間くらい走った。
 家に戻った時、家族は、今日の今日でもう事故を起こしたに違いないと、騒動していた。

 私の家族は、運転ができる人がいなかった。仕事で使うので車はあった。職人さんや、お弟子さんが、仕事で必要な時は車を運転していた。
 免許を取る前は 移動は専らバスだった。だから、私はバスの路線しか道を知らなかった。
 免許を取ってから、仕事の後、毎晩3,4時間、めくらめっぽに車を走らせた。どこに行く当てもないので、ただひたすら車を走らせ、終わりの1,2時間は、どうすれば家に帰れるかを考えながら走った。何度も同じ道を走ることになるので、いやでも道を覚えた。
 近辺の道を覚えた頃、私は、「翼を授かった」のだと感じていた。行動範囲が10倍広がり、いつでも、だれにも頼らず、どこにでも行ける。
          自由だ!これが本当の自由だ! 

 思いがけない「自由」の獲得に、私は大満足だった。
たとえ、家族の送り迎えや、買い物や、各種雑用を一手に引き受けたとしても、有り余っておつりがくる、くらいの価値を感じた。

 私にとって、「自由の翼」である自動車が、相棒だと感じる事は、ごく自然な事だと思える。
 車種や、外形には 何の拘りもなかった。私は、初めからずっと、ボロ車にばかり乗っていた。
 最初のマツダボンゴは ボディの下の部分が錆びて レース飾りのようだった。後部荷室の後部タイヤの真上にも錆で穴が開いていたので、雨降りに車を走らせると、車内に泥水がはねた。
 夜中の一人ドライブの時、峠路で突然爆音が響き、暴走族に追われているのかと怖かったが、帰ってみるとマフラーの留め具が錆び落ち、外れていたのだった。
 日暮れの交差点で 後部のスライドドアが外れ、引き摺る格好になって、ものすごい音を立てた時は、さすがに恥ずかしく、周囲のドライバーの視線を逃れたかった。一人だったので交差点の真ん中で止まってしまった車を降り、火事場の馬鹿力でドアを持ち上げ引っ掛かりのある所になんとか乗せて、そろそろと走って自宅まで帰ることが出来た。
 エンジンは強く、何の問題もないようだったけど、その修理にかかる費用で次の車が買えるということで、ボンゴとは、お別れになった。
 次の車は、見た目で「ボロだ」という個所はなかったが、電気系統のトラブルが最初から続き、エンジンもなんだか馬力がなくて、私は マツダボンゴが懐かしく、その車にあまり馴染めなかった。やはり電気系統のトラブルで2年ほどで乗り換えになった。
 その次の車も、トラブルが多かったが、形が「ボンゴ型」だったのもあり前の車よりは、相棒感があった。色々なトラブルも一緒に乗り越えて、いい感じだったのに、私のミスで 突然の別れが…
 その時私は 倉敷で一週間の展示会の搬入で高速を走っていた。展示会用の製品と、ディスプレーに使う道具で、車内は天井まで荷物で埋まっていた。初めての土地での展示会だったので、その事で頭がいっぱいだった。

気が付くとアクセルを踏んでいるのにスピードが落ちている。「なんで?」と考えているうちに、どんどんスピードが落ちていく。ハッとして計器をみると、オーバーヒートの警告灯が。高速上で、スピードも落ちている。オーバーヒートは初めてだったので、どうすればいいのか、気が動転した。とにかく止まらなければ。サービスエリアは過ぎたばかり、路肩の安全帯を見つけて車を止め非常電話で連絡し、最寄りの、ディーラーの番号を教えてもらい、電話した。小一時間でレッカー車がやって来てディーラーまで運んでくれた。その時点まで、私は、事の重大さに気付いていなかった。
 ディーラーに着けば、直してもらえると思い込んでいた。半日遅れるが、なんとか展示会を開催しなければならない。どのくらいかかるのだろう?などと考えていたら、修理の担当の人が来て、「エンジンが完全に焼き切れています。このエンジンはもうだめです」と告げられた。

 その後は とにかく、「この先どうするか」を押し流されるように決めて行くほかなく、展示会を遂行するための手立てを中心に話し合ったり、決断したりしたのだと思う。レンタカーを借り、その日のうちに倉敷に到着し、なんとか展示会を開催することは出来た。

一週間後、展示会を終えて、広島で高速を降り、ディーラーに向かった。けれど、私の二代目の相棒に会うことは出来なかった。もう、廃車の工場に移動されていた。色々な手続きだけやって、帰路に就く。
 帰りの車の中で私は泣いた。
 私がラジエーターの水量をチェックし忘れ、大量の荷物を積み込み、高速道路を走ったから、こんなことになった。
 知らない土地に相棒を置き去りにし、家に連れ帰ることも出来ず、最後の別れも出来なかった。 
 悔やんでも悔やみきれない。泣いても、何も戻らない。
 けれど、‟想い” だけはどうしても届けたかった。
 強く強く念じれば、届くはずだと、その時私は確信していた。
 ごめんね、と ありがとう、を一心に念じ続けた。


 その後、私は 何台もの相棒たちと出会い、そのダッシュボードに手を当てて、相棒に話しかけるのが習慣になった。‟想い”が通じていると、実感することもある。そう感じさせる出来事も、いくつかあった。
 
 現在、私は、車を運転する仕事をしている。仕事でする運転は、その技術の部分に、より厳密さを求められる。この仕事をするようになって、私は、自分が「注意欠陥」という性質を持っているということに気が付いた。
 そんな私が、これまでに 大きな事故を起こすことなく運転を続けていられるのは、もしかしたら、相棒たちのお陰なのかもしれないと、思うのだ。

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