きちゃった、徳島。
(第六回阿波しらさぎ文学賞落選作)
春の車窓から差し込む切れぎれの朝日を浴びて、七色に輝くガラス製のスキットル瓶の表面を眺め、嵌め込まれたアルミプレートに映る私の顔が皺も見えないぼやけぶりなことに安心する。300ml入りの透き通った瓶には、同棲していた彼が徳島の山の麓で蒸留して試作した、スダチを使ったクラフトジンがたっぷり詰めてある。
朝の電車内の乗客が動き始める。対面の座席には学生の若いエネルギーの残滓がこびりついている。通路を出口に向けて歩いていく会社員と目が合う。奇異なものでも見るかのようなスーツ姿の男性に口角を歪めた笑顔を見せた後、私は手にしたものをバッグに仕舞うことを止めた。停車した電車から降車客が吐き出される。乗車客はすくない。ドアが閉まる。私は瓶の栓を回し、直に口をつけて盗み取るかのようにジンをひとくち含む。スダチとジュニパーベリーの香りが口腔いっぱいに広がったあと、喉を焼くような刺激が走る。性交と飲酒は似ている。それが公衆の面前で行われることが憚られるという一点において。私は彼を感じながら、子宮の奥に沈み込むアルコールの暖かさを思った。
(285/300ml)
電車は富山駅に停車した。北陸の各空港からは徳島への直行便なんか出てはいない。私は北陸本線を利用して、金沢、福井、敦賀経由で神戸の三ノ宮まで行き、高速バスで徳島入りを目指すルートを選択した。駅前の喫煙所で最後に残った煙草を吸ったあと、富山駅のショップ街で、カップ酒、缶ビール、缶チューハイをそれぞれ4〜5本ずつ補充する。これからの移動で彼のジンを飲み切ってしまわないように、私は代替品で心を紛らわせようと決めていた。ギチギチに酒を入れたカゴを見てレジの女性が一瞬たじろぐが、すぐさま営業スマイルが戻ってくる。私は、さも当然に、自然に、会計の終わったそれらを中身が見えないエコバッグに詰め込み肩掛けにしてレジから離れる。出発以来の不安が和らぐ。私は早足でホームへと向かう。
電車は揺れながら進む。私は4本目の缶ビールを飲み干して彼との日々を思い返していた。1DKには不釣り合いなクイーンサイズのベッド。2〜3日にいちど揺れていたスプリングの軋むリズムと電車の揺れが同期していることに気づいて私は思い出し笑う。もうあのベッドも、部屋も、何もかも処分してしまった。持ってきたのは思い出と酒だけ。
瓶を取り出す。栓を捻って飲み口を舌で舐めとる。彼のものをそうしたように。口内に生温かい液体を流し込む。彼がそうしてくれたように。喉が焼ける。私は眠る。
(255/300ml)
駅員に揺すぶられて目を覚ます。時間はギリギリだ。私は足をもつれさせ、福井駅のホームを駆ける。走ったのは彼が出て行った半年前ぶりだなと思い出してすこし泣く。出発ホームの階段を登り切ったところで私は派手に転ぶ。ガラスカップの割れる音、フラッシュバック。閉店間際のスナック。床には割れた焼酎のボトル。テーブルにうつ伏せた私。迎えにきた彼の悲しそうな顔を思い出した私は這いつくばったまま、少しへこんだチューハイの缶を救い出して、日本酒で酒浸しになったエコバッグをホームのゴミ箱に叩き込み、閉まる寸前のドアをくぐり抜ける。すぐさま、車内トイレに駆け込んだ私は残ったチューハイを一気飲みし、日本酒で濡れた掌を舐めとると、備え付けの鏡を睨んだ。水商売あがりの四十路女。ネックラインに垢の浮いたカットソー、毛玉だらけのパーカー、弛んだ腹肉を乗せたスキニージーンズには酒の染みができている。私はまだ酒で濡れた手で乱れた髪を直すと、平然を装って座席へと向かう。午後早くの車内はそれなりに混んでいたが、集まった視線をひと睨みすると乗客は周囲から散っていく。私は座席にドカンと腰掛け、彼の瓶を取り出す。飲む。飲む。飲む。鼻水が詰まってクラフトジンの香りがしない。飲む。「あああああああ!!」大声をあげた私はスッキリした顔で座席に深く身を沈める。
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
私を放っておいて。私を置いて行かないで。私は車窓から見える桜並木にそう語りかける。
(150/300ml)
「どうしてそんなに悠くんは優しいの」
かつて私は一度だけ彼に聞いたことがある。彼の勤めるホストクラブの席に座り、指先の煙草に伸びたライターの火を眺めて私はそう言った。売れっ子ホストの色恋担当は、酒で身体を壊した金だけはある売れ残りのホステス。どうせ金だけ引っ張れば用済みの関係、私は最初から彼を疑っていた。
「僕の母さんも酒で亡くなった人だから。ほっとけなくてさ」
もう少し上手い嘘つきなよ、と煙を吐き出して笑った私は、そんな彼がたまらなく憎らしくて、アイスペールの中からワインボトルを抜き、その全てを彼の頭へと注ぐ。紅く染まる彼の後ろから店長が駆け寄ってきて、あんた、やりすぎだ、と声をあげ私を引き剥がし、店の外へと放り出す。私は泣き叫んで財布の中の万札を何枚も何枚も店のドアに叩きつける。帰り道のコンビニでウォッカのボトルを買い、ラッパ飲みしつつあちこち彷徨い歩いて辿り着いた家には、もう彼が帰っていた。私は飲みさしのボトルを壁に向かって放り投げ、彼の衣服を剥ぎ取るとベッドに押し倒す。ごめんなさい。もう飲まないから。ちゃんと断酒ダルクに通い直すから。お願い。私は泣きながら彼を愛する。
翌朝、彼の姿はベッドには無い。私は無駄だと分かっていても家の周辺を走り回って彼を探す。何度か路上に嘔吐する。連絡もつかないまま家で一日、一週間、一ヶ月、半年、彼の帰りを待つ。ピンポン。私は酒瓶をかき分けて玄関に這いずりドアを開ける。宅急便だった。
『ホスト辞めた金で独立して、以前からの夢だったクラフトジンの蒸留所を開いています。良質なお酒を正しく飲めば大丈夫なことを証明したいんです。これが咲さんの最後のお酒になるように祈っています』
さようなら。と結ばれた手紙の下には、アルミプレートの銘が打たれたガラスのスキットル瓶が一本。
「『巣立ち』なんて銘柄、下手な洒落だよ」
私は、ポケットの中で宅急便の箱から剥がした送り状の紙片を震える手で握りしめると、降り立った三宮駅で夜の繁華街の雑踏にギラギラした目を隠し、こっそりと瓶の中身を口に含む。
(120/300ml)
高架下の三宮バスターミナルの壁際にうずくまった私は、顔を刺す朝日で目を覚ます。乗る予定だった昨夜の高速バスは、酔い潰れた私を残して行ってしまっていた。おまけに、持ってきたボストンバッグも消えている。私は唸り声をあげ、油っぽくギシギシとした髪を掻きむしると、ポケットに入った瓶の無事を確かめて、スマホでバス予約サイトに入る。カード限度額をいっぱいまで使いきって支払いを終え、ついでに開いていたマップアプリで周囲の酒屋を探す。量販店を見つけた私は店を訪れ決済アプリに残っていた残高をぜんぶ使って一本の酒を買う。スピリタス。アルコール度数96%の劇物。私は剥き出しの瓶をパーカーの裾で覆って隠し持ち店を出る。
バスターミナルに戻った私は、冷えた路上で寝たせいか大きなくしゃみをする。心を落ち着かせるため、震える手で悠くんの瓶をポケットから取り出し、苦心して栓を開け、ごくりと飲む。震えが止まり、視界が戻ってくる。大丈夫。私はまだ正気だ。やってきたバスに乗車し、私は徳島へ向かう。
(90/300ml)
明石海峡大橋を越える。(80ml)
淡路島を縦断していく。(70ml)
青く輝く瀬戸内海が恨めしくてうぐう、ぐううと泣く。
大鳴門橋を渡っていく。(60ml)
大毛島を抜け鳴門市へ。(50ml)
くしゃみが止まらない。私は少し漏らす。
徳島ICを降り、徳島駅へ到着する。(40ml)
タクシー乗り場のロータリーには椰子の木に囲まれた「歓迎 ようこそ徳島へ」の看板。そしてその向こうにはなだらかな丘のような山が。眉山だ。私は酩酊しかけた頭を振り、悠くんの中身を全部喉に流し込む。
(0/300ml)
ポケットの中の送り状を取り出しマップアプリにその住所を打ち込むと、現在地から数キロのところに彼の蒸留所はあった。まさに眉山の麓だ。私は山を睨みつけると一歩一歩踏みしめるように前へ向かう。低い山の稜線は横たわった女性のシルエットを思い起こさせる。あの女に、彼が。私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を背けることなく、山を見据えたまま歩く。あの女が、彼を。山が近づいてくる。悠くんを取り出しその口を舐める。悠くん。悠くん。悠くんのものはもっと大きい。悠くんとのセックスはとても良かった。私は公衆トイレに駆け込み、漏らした尿と愛液の染みたパンツを脱ぐ。替えは無い。素肌にジーンズをはきなおすと、涎でべとべとになった悠くんの口へ、買っておいたスピリタスを注ぎ込む。手が震えて酒が溢れるのも構わずに、私は悠くんを透明な愛液で満たす。悠くんの栓が便器の中に転げて落ちる。仕方がないので悠くんの口に脱いだパンツをねじ込んで塞ぐ。余ったスピリタスをがぶり、と飲み干すと、私は激しく咽せて便器の中に血の混じった胃の中身を吐き散らす。私は酒瓶をトイレにうち捨ててまた歩き出す。
(300/300ml)
「眉山は綺麗な湧き水の出る山でね。蒸留酒の仕込みにはもってこいなんだ。咲さんもきっと気に入るお酒になると思うよ」
「うん。ありがとう悠くん。また一緒に暮らそうね。今度はちゃんと断酒するから、大丈夫だよ」
「いま仕込んでいるのは、蒸留が終わった釜の中ににジュニパーベリー、スダチとユズの乾燥させた皮、その他ハーブを漬け込んでいるんだ」
「すごいね。悠くん頑張ってるんだね。私もこっちで新しい仕事見つけなきゃ」
「そしてこれが出来上がったジン。咲さん、飲んでみてよ」
「ありがとう、でも、わたしもうお酒は」
「とても美味しいよ。徳島に来れて僕は本当に幸せだよ」
「悠くん、わたしもうお酒はやめたの」
「さあ、いっぱい飲んでよ。僕の作ったお酒を、僕を、僕を僕を僕を」
「もうお酒はやめたの!」
日も傾きかけた蒸留所の駐車場で、帰ろうと車に乗り込む寸前の悠くんがビクっと身体を震わせる。
「どうして、ここに、」
「きちゃった。徳島。悠くんを、わたしで、満たして、きちゃった」
私は後ろ手に隠し持っていた悠くんを悠くんに突きつける。中身は私の愛液だ。私の愛だ。透明で、まじりっけ無しの、純粋で、熱い、私の、
「もういい、もうやめてよ、咲さん、」そう言うと、近寄ってきた悠くんが私に手を伸ばしてくる。
「おさけ、やめたの。証明するね。この女を、やっつけて、私のほうが、悠くんを、愛してるって。」
私は悠くんの手を振り払うと、蒸留所の背後に横たわる眉山に向かって悠くんを掲げる。こんもりとした春の雑木林が陰毛のようにさわさわと風に揺れる。私はパーカーのポケットから百円ライターを取り出すと、悠くんの口を塞いだパンツに火を付けた。
「咲さん!」
私は眉山の岩肌目掛けて悠くんを振りかぶる。岩の上に生えた山桜が目に止まる。嵐のような風が吹いて桜が舞い散る。私を包む花びらは燃え盛るパンツに炙られ、茶色に、そして黒く焼け焦げる。振り上げた手からだんだん力が抜けていく。駄目。だめだ。私の愛は貴女を焼いてはいけない。だって、こんなに綺麗な貴女は、悠くんに幸せをくれた貴女は、わたしなんかに汚されてはいけない。私はスキットル瓶の口を塞いだパンツをはたき落とすと、ガシガシと靴で火を踏み消す。そして、中身のスピリタスをバシャバシャと被って頭を冷やした。お別れだ。お酒とも、悠くんとも、貴女とも。
「咲さん、こっちにもアルコール依存症の病院や断酒ダルクはあるんだ。一緒に行こう。行って、治そう。そうじゃないと、もう、僕は、僕の周りで、酒で破滅する人を見たくないんだ。お願いだ、咲。」
そう言って、悠くんは酒で濡れるのも構わず、私を後ろから抱きしめてくれた。夕陽に舞い散る桜に包まれながら、私と悠くんは声をあげて泣いた。正しかったんだ、悠くんの優しさは。私は、私をやり直そうと思った。
ひとしきり泣くと、力の抜けた私は駐車場の地べたに座り込んだ。「あはは、立てないよ、悠くん。ちょっとだけ休むから、そのまま後ろからギュッとしてて。タバコある?」
ずぶ濡れの私を後ろから抱いたままの悠くんは、ズボンのポケットから煙草を一本差し出した。私はさっき落とした百円ライターを手に取り、指を添える。そして、
「最後にいっぱいだけ、お酒をやめる記念に、悠くんのジンを飲ませてくれない?」
そう言って笑うと、私は咥えた煙草に火を
(0/300ml)
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
(井伏鱒二「厄除け詩集」より、唐代の詩人于武陵の詩「勧酒」に付した訳から引用)
(了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?