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読書感想#17 【吉本隆明】「言語にとって美とは何か第Ⅰ巻」「言語にとって美とは何か第Ⅱ巻」【三浦つとむ】「日本語はどういう言語か」

 言葉には主観的な言葉と客観的な言葉とがあります。主観的な言葉とは例えば表現的な言葉です。美しい、可愛い、楽しいなどというような言葉が当てはまります。もちろん一口に美しいとはいっても美しさの尺度は人それぞれですから、ここには客観的な事実がないというのはいうまでもありません。ある人にとっては美しくても、皆にとって美しいとは限らないのです。またどの程度の美しさなのかというさじ加減も人それぞれです。果たしてそれを美しいと感じない人が、どのようにして美しいと感じる人の気持ちを理解することが出来ましょう。仮に理解出来ると言い張るならば、それは慢心以外の何者でもありません。言葉というのは決して全てを伝えるものではないのです。

 では逆に言葉によって伝えられるものは何か、それは客観的な内容です。例えば北、鉛筆、人間などが当てはまります。私たちは北を向くという言葉に対して、皆共通の行動がとれる筈です。人によって答えが違うという事態には陥りません。だからこそ客観なのです。ただしこのように言葉が客観的な内容を持つためには、最低限の条件を満たしていなければなりません。それは即ち、各々が自分の感情を全体に還元しているということです。例えば北という言葉に対して、私にとっての北はこの方角だ、という我を持ち込んではいけません。あらかじめ社会的に定められた北という言葉の意味を、皆で約束事として受け入れておかなければならないのです。その時に初めて言葉は客観的な内容を持つことが出来るのです。


 しかし昨今はこの言葉が持つ主観的な面と客観的な面とが混同された状態で使用されていることも少なくありません。例えば分かりやすさ、というのがその典型でしょう。分かりやすい、というのは確かに相手に伝えるという点に於いては重要なことではありますが、相手に伝えることだけが言葉の価値ではありません。あくまでも精度の高い意志疎通が求められる場面に於いてのみ、その価値を発揮するのであって、必ずしもそれは言葉の必須条件ではないのです。しかし昨今の風潮は、分かりやすいことにこそ価値があって、難しいというのを却って見下す傾向にあります。本当は自分でも良く分かっていないから煙に巻いているのだとか、わざと権威ぶっているのだとか、あるいはあの人は頭のネジが外れているのだという風に開き直って、逆にアドバンテージを取ろうとするのです。もちろん実際に悪意があって難しい言葉を多用している人もいない訳ではありません。むしろそういう人の方が多いかも知れません。しかし本来難しいとされる言葉で表現活動をする人のその理由は、自分だけにしか理解され得ない、その自分だけの感情を大事にするためであります。

 先ほどにも述べた通り、客観的な言葉というのはあくまでも我を制限して、社会的に共有し合える段階まで妥協した結果として成立するものです。もちろんここでは個性が抑圧されることなります。しかし個性は社会のために放棄されるべきかというに、思うに決してそのようなことはあり得ません。もしそうであるならば、私たちの存在は機械以外の何者でもないでしょう。私たちが私たちであるためには、個性を尊重し合わなければならないのです。そしてその個性を尊重し合う手段もまた、言葉なのです。主観的な言葉というのはそのためにあります。


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