読書感想#10 【久野収】「平和の論理と戦争の論理」
本書に於いて指摘されている通り、平和の問題には専門家がいません。戦争を論ずる専門家や戦争の是非を問う専門家は確かに数多くいますが、彼らでさえ、そもそも平和とは一体何なのかといったような、平和そのものについては語りたがらないのです。しかしだからといってそれは必ずしも責められるべきものではありません、むしろ同情の余地さえあります。なぜなら世間は平和を語ろうとする者に対して、彼は理想主義者だ、彼女はまだ現実を知らない子供なのだ、などといって軽くあしらうからです。いわゆる平和論者では専門家の道を歩けないのです。平和について語るのは、それだけで既に幼稚な考えの持ち主だと判断されます。人間は根源悪だ、平和などただの幻想だ、武力は必要悪だ、こう論じた方が如何にも知的で大人な意見に聞こえてしまうのです。
しかしいくら戦争について論じてみても、それだけでは一向に平和の目処は立ちません。仮に世界から戦争がなくなったとして、それはそのまま世界の平和を意味するとは限らないからです。間違っても平和な世界というのは、戦争がない世界のことをいうのではありません。平和な世界のことを平和な世界というのです。戦争がないから平和なのではなく、平和だから平和なのです。
私たちは平和な世界を目指す前に、何を持ってそれが平和といわれるのかを真剣に考えて見なければなりません。それさえも上手く纏まらずして、何故平和に到達するのでしょうか。しかし先にいったように、世界には平和の専門家はいません。この重要な問題を真摯に受け止めようとする学者はまだ存在しないのです。しかしそれは実は回り回って良いことであるといえるかも知れません。もとより平和の問題は特定の専門家の手に委ねられるべきものではなく、却って私たち一人一人に委ねられなければならないものだからです。平和というのは決して時代の雰囲気や倫理観、道徳に思想の価値観等によって定められるものではありません。それは常に自分事でなければなりません。平和の動機は常に、平和を願う私たちの自分事としての欲求でなければならないのです。他者を傷つけたくない、まだ死にたくない、愛する人を失いたくない、斯く想いが私たちに平和へと努力させるのです。平和の道は必ずここから始まります。
平和とは何処までも自分事として考えられ、それは自分たちが幸せに生きるということでなければなりません。私たちが幸せに生きられる世界、それが平和なのです。故に当然ですが、戦争がないことがそれだけで必ずしも私たちの幸せに直結するとは限りません。私たちの真の幸せとは何なのか、この問いかけが平和に対する正しい提起の仕方なのです。
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