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父の軍隊生活

父が軍隊時代の話をするときは、いつも旧陸軍の不条理な世界に対する怒りが込められていた。
東京の近衛師団に配属され、やがて満州海城県に送られた。配属は体格がよかったためか、山砲兵第29連隊第一中隊だった。

父からはこんな話を聞いた。親元から送られた柿を寝台の下に置いていたら、上官の目に止まり、どうして一人で食べてるのかと叱咤され、殴られた。大砲に腰掛けていたら、上官がやってきて、陛下の武器を何と心得るかと叱られた。上官がやって来て、制裁とも言える掃除をさせられた。反抗すると殴られた。ベルトで打つんだぞと母に話していた。上官の理不尽な行動には無行動の抵抗を続けた。やがて、上官は根負けしたのか、「お前は見ていてよい」と言ったそうである。「俺は気が弱いが、くそ度胸がある」というのが、口癖だった。戦後に発表された戦争小説にも、帝国陸軍の無法状態でのリンチや制裁が描かれているから、父だけの体験ではないようである。

意地の悪い上官は、いよいよ戦闘が近づくと、急に優しくなったらしい。「鉄砲の玉が後ろから飛んで来るのが怖かったんだよ」と言っていた。ある日、銃が暴発して、右指2本を失う大ケガをして、内地に復員した。上官の書いた書類では、藁切機の歯車による損傷とあった。陛下の武器が事故を起こしたとは、口が滑っても言えないことだったのだろう。

父の旧陸軍嫌いは変わることはなかった。勝新太郎の演ずる『兵隊やくざ』は喜んで見ていた。引揚げ船での兵隊たちの将校への制裁の話を共感して話していた記憶がある。復讐というのでは、随分年上の職場の先輩から「戦時中の中学校に意地の悪い配属将校がいて、敗戦時に生徒たちが集まって、その配属将校をやっつけようと相談していたところ、それを察知したのか、逃げてしまったよ」という話を聞いたことがある。そういう気分はあちこちにあったということである。

父とは対象的に、戦友会に出ることを楽しみにしていた人たちがいたことも確かである。少年期に育った隣家の小父さんが、兵隊時代の話をしてくれたことがある。名古屋の部隊に配属されたと聞いたが、外地に行ったかは覚えていない。「死ぬときは皆一緒だぞ、と言いあった」という小父さんの言葉が印象的だった。戦友とのつながりが深かったのだろう。父と小父さんの違いが何故生まれたのか分からない。人との出会いによるのか、良い上官に恵まれたのか、人間を狂わす環境が違っていたのか、いろいろなことが加わり、運命は変わっていくのだろう。

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