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物乞いと芸能

北京オリンピック前のことである。現在の北京は当時とはだいぶ変わっていると思われるが、天安門広場を歩いていると、手を差し出して近づいてくる人がいた。見るとその手には指がなかった。手の平の上にはコインが乗っている。この上に貨幣を乗せてくれとの意味なのだろう。その姿に単なる物乞いというよりは、自らを見世物にして対価を要求している。そう思えた。これが手の平でなく、手足となり、軽やかに動き出したら舞踊である。身体が踊りだすと芸能に近づいていく。この見世物に対して要求通りの対価を払うかどうかは観客が握っている。要求と許諾が成立すると、大道芸人となり、やがて舞台で演じられる芸能へと進化していく。

しかし、物乞いを何年続けていても自然と芸能に変わるわけではない。単なる物乞いと芸能の違いはどこにあるのだろうか。コインの乗った手の平は、同情や憐みの気持ちを抱かせる。軽やかな舞踊には感動がある。憐れみを売ることと芸を売ることには、両者ではっきりと違いがあると思われる。

戦前のことだが、夫婦の殿様乞食というのがいたと母から聞いたことがある。その様態について詳しく聞かなかったことが悔やまれるのだが、名称からすると殿様風の様相が売り物なのだろうか。売りが憐みから奇抜さ、斬新さに変わっている。単なる物乞いから芸風を模索する姿が想像される。

芸能の初期には物乞い的な要素があったと思われるのだが、それが完全に芸能になるには人びとの心をとらえるものがなくてはならない。『男はつらいよ』で渥美清さんが演ずる寅さんが大道でみごとな口上を発しているが、実際にそういう場面に出会ったら、物を買わないでも、口上を聞いただけでお金を払いたくなる。優れた芸とはそういうものなのだとつくづく思われる。

2023.2.11

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