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昔は道路で遊んだな

昔は―昭和30年代のこと―家の前の道路で遊んでいたなんて、今では想像がつかないだろうが、幹線道路を除けば、ほとんど車が通らない時代があった。

幼い頃にはローセキで路上に動物の絵を描いて遊んだ。脳裏には舗装していない土色の道路の記憶があり、雨が降れば水たまりができた。絵が描けるのだからアスファルト舗装されていたのだろうかと思い、昔の写真を見たら、やはり舗装されていなかった。当時、隣家は薪の販売をしていて、時々、荷馬車が薪を運んできた。馬が道路にいて、糞を残して帰って行った。

路上は子どもたちの絶好の遊び場だった。近くに公園がなかったこともあるが、家の前で遊んでいると近所の子どもたちが集まってきた。女の子がいるとケンケン、お兄さんたちは竹馬、正月には羽つき、男の子たちだけだと缶けりをした。幼なじみとはチャンバラや追いかけっこ。車によって遊びを邪魔された記憶がない。

隣家の人は、掻き集めた落ち葉を燃やして焚き火をした。焚き火で焼き芋ができた。車が走っていなかったからできたのだろう。車はミゼットというオート三輪車を一台見た位に珍しかった。車を所有している家は一軒しかなく、いつも狭い車庫に小さな車が入っていた。

千葉街道を渡って池本という床屋に行っていた。池本は信号から少し外れた位置にあった。終わると店のお兄さんがダッコして、車が来ないのを確かめて向こう側に渡してくれた。それほど車の通行は少なかったのだろう。

そう言えば、門の塀の近くに四角いゴミ箱が置いてあった。わが家のはコンクリート製で、木の蓋がついていた。清掃用荷車(大八車)がチリンチリンと鐘を鳴らしながらやって来てゴミ箱のゴミを収集した。東京オリンピック(1964年)を境にゴミ箱がなくなり、大きな円筒のポリ容器に変わり、ゴミ箱が道端から消えた。

写真2はカラーなので、東京オリンピック後の光景かと思われる。それ以前はブロック塀でなく、榊󠄀の垣根だった。

1 昭和30年代はじめ
2 東京オリンピック後

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