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親族隠避と論語

最近のニュースで、子どもが親を殺したという事件が流れた。「親殺しは罪が重いよね」「いや、尊属殺人て無くなったんじゃないかな」
調べてみたら、たしかに、法の下の平等に反するとの考えから、村山富市政権下の1995年に刑法が改正され、尊属殺人罪、尊属傷害致死罪等は削除されていた。

代々、尊属殺人に重い罰を与えてきたが、それは、父母を敬う思想の裏返しであり、修身斉家治国平天下(わが身を修め、家庭をととのえ、国を治めて、天下を平らかにする)の倫理感に通ずるものだ。親への反逆を抑え、さらに上の者への反逆も抑えるという君主時代の治安方法だ。

儒教が政治に上手く使われてきたようだが、『論語』を開き、直に孔子の言葉を読むと、国家に利用されてきた儒教と孔子の教えとに微妙な違いを感じることがある。

葉公(しょうこう)が孔子に自慢げに「私の村に正直者がおりまして、父親が羊を盗んだのをみて、その子は父親の犯罪を曝露しました」と話すと、孔子は「私の村の正直者はそれとは違います。子どもが犯したら父親はそれを隠し、父親が犯したら子どもはそれを隠し、互いに隠しあいます。人の正直な心はこういう中にあります」と語った。親族の自然な情愛により、罪を互いに隠し合うことを自然の摂理としている。初めてこれに接して、はっとするのは、一律的規範として犯罪を規定するのに比べて、人間の普遍的な倫理が優先されているからだろう。

「葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に躬を直くする者有り。其の父、羊を攘む。而して子、之を証せり。孔子曰く、吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。」(『論語』)

日本の法律は、長らく定着してきた儒教的な精神にどう対応しているのだろう。
「刑法第百五条 前二条の罪については、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる。」
前二条の犯罪者隠避等の罪は、親族たる犯罪者のために犯した場合は刑を免除できるとある。あくまで犯罪なのだが、刑は免除できるであり、孔子ほど積極的な善行とはしていないが、肉親の情愛からの人間自然の行為と理解して、現代法も儒教的な倫理感は無視できないようだ。なお、親族は、配偶者、6親等以内の血族、3親等以内の姻族とのこと(民法第725条)

親族隠避の刑罰免除があり、一方、尊属殺人罪の削除があり、なかなか面白い。何が人間の普遍的な真理なのだろうか。人間を根本から考えることが大切だとつくづく思われる。




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