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お金を拾う話(2) 良寛の逸話

先日、お金を拾う話を書いたが、続いて、お金を拾うとうれしいという話である。お金が落ちているのを見つけると脳が活性化するのは真理のようだ。

良寛の逸話に、良寛がお金を拾い喜ぶ話がある。お金を拾ってうれしいと言う人の話を聞いた良寛が、お金を拾うことはそんなにうれしいものなのかと試みに手持ちの一文銭を投げて拾うが全然うれしくない。再び投げて拾うがやはりうれしくない。騙されたのかと疑いの気持ちになる。何度も投げているうちに、一文銭がどこかに消えて見つからなくなる。必死に探すが見つからない。懸命に探して、やっと見つけ出すことができて、非常な喜びを感じる。お金を拾うということは、こんなにうれしいものかと得心する。

人曰く、金を拾う、至て楽しと。師自ら金を捨、自ら試みに拾う。更に情意の楽しきなし。初め人吾を欺くかと疑う。捨つること再三、遂に其在る所を失う。師百計して是を拾ひ得たり。是の時に至りて初めて楽し。而て曰く、人吾を不欺と。(『良寛禅師奇話』)

良寛の子どもの頃の話だが、夜になり、栄蔵(良寛の本名)がいないことに家族が気づき、あちこち探しまわると、薄暗闇の中、庭の池の側でうずくまっている影があり、近くにより見ると良寛だった。その理由を聞くと、読書好きの栄蔵(良寛の本名)は、「そんなに本ばかり読んでいるとヒラメになる」と言われたために、ヒラメになったときに備えて水の近くにいたと答えたそうである。人の言葉を文字通りとらえ、そこに作為的なものなど微塵も感じ取らないというのが、良寛の子どもの頃からの性向であった。

私利私欲のない良寛ならではの逸話であるが、良寛の時代とは異なり、人の行為に規範という定規が作られていて、今の世は小銭を拾い喜んで終わる時代ではないようだ。今は、小銭を拾い、一瞬感じる純粋な喜びと、警察署に届け出て無事持ち主に戻り(可能性は低いと思う)、あるいは、行政の金庫に入り、公共の利益に役立つことを喜ぶという、ふたつの喜びには、私の体験から本能的な喜びと理知的な喜びの違いがあるように感じている。なお、拾得者の権利の主張には、事務のはんざつさ、遺失物センターへの移動の負担等があり、割が合わないと感じる。小銭を拾ったら、交番前にお賽銭箱のようなものがあり、柏手を打って、お金がみんなの幸せに使われますようにとお祈りができるような仕組みにならないものかと呟いているが、いずれにせよ、お金が道端に落ちて大地に朽ち果てる前に拾われて、再び世間の役に立つというのは、悪いことではない。

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