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万葉集の常套句

万葉集を紐解くと常套句といえる語句が数多く散見される。著作権で身動きとれない文芸風土の現代と比べると和歌に対して大らかな万葉の人たちの姿が浮かんでくる。

例えば「見れど飽かぬ」が入った歌は、万葉集中に40首ほど散見され、常套的に使われている。
 見れど飽かぬ吉野の川の常なめの絶ゆることなくまた還り見む (柿本人麻呂)
 昼見れど飽かぬ田子の浦大王の命畏み夜見つるかも
 若狭なる三方の海の浜清みい往き返らひ見れど飽かぬかも
 山高み白木綿花に落ちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも (笠金村)

巻20-4368と巻9-1668には「幸くあり待て」、「船に真楫繁貫き」と二つの常套句が使われていて、構成と意趣がほぼ同じである。

天平勝宝7年(755)2月に、諸国から筑紫に遣わされる防人たちから出された短歌のひとつである。兵部少輔だった大伴家持が諸国の防人部領使を通じて防人たちに歌を出すように命じたと思われる。2月14日、常陸国防人部領使正七位上息長真人国島が17首を進上したが、そのうち万葉集に10首が収録された。その1首が久慈川の歌である。

久慈郡丸子部佐壮(すけを) 
久慈川は幸くあり待て 潮船に真楫繁貫き 吾は帰り来む (巻20-4368)

白崎は幸くあり待て 大船に真梶繁貫き またかへり見む (巻9-1668)

これは、大宝元年(701)、持統上皇と文武天皇の紀伊行幸の時の歌である。こちらの歌が先にあり、久慈川の歌が後に作られた。両者の違いは、白崎・久慈川、大船・潮船、またかへり見む・吾は帰り来む、で歌の構成や意趣が同じである。白崎の歌が広く流布していて、これを本に久慈川の歌が作られたと思われる。

現代よりも自由に他作品の利用が行われていた。古代人には和歌に対する権利意識は乏しかったし、そもそも有形のものにしか財産的な価値を見出さなかった。そういう大らかな時代が、カメラや複写機などが発明されて複製が簡単にできるようになり、作品を売ることを商売にしている芸術家たちが危機意識を感じるまでは続いていた。万葉集に散見される常套句の歌からこんな著作権にまつわる思いがしてくる。


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