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播磨坂の宗慶寺と野口勝一

文京区の播磨坂を下った先に宗慶寺がある。近くに泉があることから山号を極楽水または吉水山という。ここに常陸国多賀郡出身の明治時代の文人で衆議院議員を勤めた野口勝一の墓があった。

以前に散策がてらこの寺を訪れた。訪ねた理由は、野口勝一の日記に妻の曽祖父原田信民に関する記述があり、二人が知古の間柄だったことが知られたからである。

宗慶寺は、都心でよく見かける鉄筋コンクリート造りの寺院だが、正面には江戸時代からの石仏が並び、「珂北野口先生之碑」と刻まれた碑文が立っていた。夕刻近くに門前で佇んでいると住職夫人らしき人が出てきて、寺院の中を案内してくれた。浄土宗の寺なので阿弥陀如来の本尊が一階に安置され、二階は墓地になっている。エレベータで二階に上り、墓地に着く。「建物の中に墓地があるという寺院の草分けで大正時代からこうだったのですよ、石屋さんを呼ばなくても良くてとても便利です。」と言われ、更に二階の地蔵菩薩は江戸の四大地蔵のひとつに称されていること、野口勝一の墓は今では茨城に移されてここにはないこと、昭和末までは前のマンションの地に湧き水が出ていたが今は涸れてしまったこと、山号の極楽水は吉水山とも呼ばれていたというようなことを教えてくれた。

宗慶寺には、勝一の妻多嘉も葬られた。多嘉は明治17年12月13日に急逝し、14日に宗慶寺で葬儀が行なわれた。享年32歳。明治3年に勝一と18歳で結婚し、15年間に四男三女の7人の子に恵まれた。長女 (明治4年生)、長男 (同7年生)、二男(同9年生)、二女(同12年生)、三男(同13年生)、四男(同14年生)、三女(同16年生)である。このうち、長女 (明治7年死)、長男(同10年死)及び二男(同12年死)は数え4歳で、また三男は50日で病死していて、多嘉が亡くなったときに四男、二女、三女が勝一のもとに残された。勝一夫婦は、数年ごとの出産とその間の多くの子の死という現代人には受け入れ難い状況に耐え続けた。各地転々と勤務する中、各所で子供達を葬った。日記には「葬三所」とある。死亡時期が明治前期に集中しているのは、各地への転居の繰り返しや医療の未整備などの理由によるのだろう。当時の子の多産多死は必ずしも勝一に限る話ではないと思われる。

多嘉は、夫との「円居十五年」の間、方々を転居し、静かに居を構える暇もなく出産・育児と愛児との死別を繰り返しながら、常に夫勝一に従い、艱難辛苦をともにし、32歳の短い生涯を終えた。勝一は、宗慶寺に新墓地を設けて、そこに妻を葬るとともに各地に分散する子供らの骨を集めて納めることで、妻の平生の内助の恩に報いようとした。 (『野口勝一日記』による)

宗慶寺にある野口勝一の碑


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