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暦に管理されない生活

今年もあと残すところ6日となった。元旦という人為的な区切りがあるから、感傷的になるが、昨日の明日が今日ということの繰り返しに過ぎない。暦は、社会を成り立たせるために生まれ、社会生活を営むために個人は、暦に管理されている。

外界から遮断されたとき、今日は何日かということは、自分自身では分からない。どうやって今日の日を知るかと云えば、テレビやスマホなどの外からの情報によるしかない。個人が月日の動きを正確に知ることは難しい。外界の情報により個人は支配されていると言える。

一度は、暦から解放された生活を実験的にしてみたいと思うが、あらゆることが、暦を前提にした予約システムに縛られていることに気がつく。

外界から遮断された人は、一日の始まりや終わりを、日の出と日没により知る。一か月は、月の満ち欠けで分かる。一年の動きは、月を12倍すれば、だいたい一年だし、温帯地域なら寒暖の推移や雪解け、春の芽吹きで知れるだろう。天体観測なしで、自ら知ることができる時の動きは、このようにいい加減なものだ。振り返れば、記憶に残る一年は、雪解け、桜、梅雨、夏の暑さ、台風、紅葉、木枯らし等、大まかな季節変化でしかない。春が来て、夏が来て、短い秋が行き、冬になった位の気持ちである。春夏秋冬、細かくても二十四節気が分かれば、農業は成り立つように思えるが、どんなものだろう。

仕事を離れた生活をしていると、今日が何日だったか忘れることがある。暦は、社会生活では不可欠なものだが、そうであるからこそ、友人と約束をしたり、通院予約をしたりといった予約システムが作られている。暦に管理されない時代の人間は、ふらっと友人に会いに行ったり、体の調子が悪ければ医者に行く(今でもそうだが)、観劇や映画も観たくなったら観に行く、うらやましい位気楽に思える。(反対に当時の人は、予約制に便利さを感じるかも知れない)

月日を日々細かく意識しなくなると、満年齢より、元旦で歳を数える方が煩わしさがない。家族が多いと年に何回も誕生日祝いをしなくてはならないが、元旦なら、新年の御目出度といっしょで、全員のお祝いになる。いちいち誕生日を意識せずに、元旦で歳を取るという先人の考え方に一理あるような気がする。元旦で歳を取るからこそ

 門松は 冥途の旅の 一里塚
 めでたくもあり めでたくもなし

という一休宗純の和歌が理解される。


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