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議論には相互尊重とユーモアが必要だ

この世の中には、議論があふれている。ひとりがこうだと言ったことに、もうひとりがああだと言う。そうすると、またひとりがこうだと言う。何のためにしているのか。

そういえば、古来「三人寄れば文殊の知恵」と言われてきた。一人で考えるより二人、二人より三人が集まって考えた方が良いアイデアが生まれる。これは議論より日本語の「話し合い」の持っているニュアンスに近い。近代社会は、議論が話し合いより重視され、高尚なものに拝められているようで、会議で話し合いをしたというより議論をしたという方が通りがよいようである。

議論には理路整然と述べることが求められているが、その一方、他人の意見の否定に注力され、競争原理の錯覚に陥りがちだ。与野党間の政策論争、原告被告の裁判など公的な場では、両者相容れない競争が繰り広げられている。日本の社会でも、学校教育の場で、はきはきとものを言うことが美徳になってきたが、自分を主張することにのみ重点が置かれているようで、自然と生徒たちは勝ち負けを意識するように教育されている。

言うまでもないことだが、議論は、そこから良い結論を得ることが目的である。だが過程が重視されたため、「三人寄れば文殊の知恵」を忘れがちである。競争的な議論の結果は殺伐とした人間関係と結束力の弱い組織が生まれる。

議論には、①良い結論を得ることが目的との認識 ②相互尊重の精神 ③調整機能としてのユーモアが必要であり、不要なものは相手に勝つという意識である。相互尊重の精神とユーモアは、最悪の事態にならないための安全弁でもある。 西洋哲学にも、正反合の弁証法の考えがあり、議論の家元たる西洋でも勝つことだけを考えていたのではないことは明らかである。

議論の過程で、相手に敬意を払うことを忘れずに、ユーモアにより両者を包み込み許容する客観的視点を持って、あくまで議論の目的は、勝つことではなく、よい結論に至ることによって、よりよい社会(二人以上のよい関係)をつくることにあると拙考する。


 


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