ひとときの美 砂絵
美にはひとときを楽しんで消えてしまう類のものがある。音楽や舞踊等の芸能はその典型なのだろうが、それでも生け花は長い間、目を楽しませてくれる。鑑賞者にとっては、観ている間だけが至福の時なのだから、美の長さは、本来芸術には関係のないものなのだろう。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響ありに親しんで来た日本人にはひとときの美に身近なものを感じてきたかも知れない。
数年前に、母親が東大宮病院に入院した。その帰り大宮盆栽町が近くにあるので散策がてら行ってみた。そこにある盆栽美術館で、砂絵を体験させてもらった。黒漆が塗られた盆の上で白砂と刷毛を使って絵を描くというものだった。係の人がお手本を見せてくれたが、上手く刷毛で白砂を掃いて富士山を描いて見せてくれた。そこには漆黒を背景に真っ白な雪を冠した富士山があった。
真似をして、富士山を描いた。刷毛の動きで、一瞬にして出来上がるが、修正はできないものだ。ちょっと稜線が欠けてしまった。出来上がった富士山に石を二つ山岳に見立てて置いてくれた。(以下の写真)
後ろに待っている人のために、私の描いた絵をご破算にして、もとの何もない漆黒の板になる。私の富士山が消えていく。私は記念にとスマホで写真を撮ったが、このあたりの執着がまだ諸行無常の精神に辿り着いていない証である。
砂絵は、ひととき、人々を楽しませるために始まった盆景の一種のようだ。自然石を置いて、それを崖に見立て、白砂で川や海を描いて自然の風景を表したりする。しばらくの間、人々の目を楽しませたら、またもとの姿に帰る。私の富士山も無くなるときは、ため息が出たが、見事な砂絵になると、片づけるときには、さぞや感慨深いことだろう。ひとときの美と言いながらも、やはり消えていくときは寂しいものだ。