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日劇ができた時に『街の灯』を見た

「日劇ができたときにチャップリンの『街の灯』が上映されて、見に行った」というのは、生前の母の言葉である。いつ頃のことか、もはやそれ以上のことは聞けない。死とはそういうものだと改めて感じる。ネットを見れば、昭和9年1月13日に封切られたとある。日劇が昭和8年12月24日に開館してまもなくのことだ。母は14歳だった。

当時、母は荏原区の下神明に住んでいたが、姉といっしょによく映画を見に行った。思い出の映画館の名前をいくつもあげて懐かしんでいたが、私はその名前を書き留めるので精一杯だった。メモには、芝園館、日活館、大井キネマ、富士見館、昭栄館といった映画館が記されている。

「日活館には大河内伝次郎や片岡千恵蔵が出ていた。大井キネマでは、長谷川一夫や田中絹代があいさつに来たのを見た。下神明には富士見館があった」と言っていた。外国映画を興行していた昭栄館については「ゲリー・クーパー、デートリッヒ、グレタ・ガルボ、チャップリンを見た。ジャッキー・クーガンの『キッド』を見た」と懐かしんでいた。

「映画館のステージの下に楽団がいて、悲しいときにはバイオリンが奏でて、時代劇は三味線が鳴り、ピアノの演奏もあった。姉が俳優のプロマイドをたくさん持っていたが、どうしたかな」

無声映画の頃は、活動弁士が活躍し、生演奏が映画の進行に従って演奏された。映画は映像、弁士、楽団から構成される総合芸術の感がある。今の映画とはずいぶん違う。アメリカでは、すでにトーキー映画が作られていたが、日本では、弁士の存在により無声映画と入れ替わるにはかなり時間を要したことが、母の話を聞いて肯かれる。映画にまつわる母の戦前の思い出である。



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