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学生の終わりを恐れていた君へ

 もう一年が経とうとしているらしい。カレンダーをめくれば3月になり、コートを脱げば温かい風を感じるようになった。新品のスーツが雑踏の中で輝いている姿を見かける。思い返すのはあの日々だ。

 緊張で強張った顔、真っすぐ伸びた背筋、カツカツと鳴る革靴。慣れているはずの電車なのに、どうしても浮いてしまう。微笑ましい視線もあれば、冷たい視線も感じる。会社に出れば、笑顔で迎える社員たち。いつ本性が出てくるのか分からない。怖くて怖くて不安だった。

 何度、学生の姿を見て、輝かしいと思っただろうか。何度、コロナがなければと考えただろうか。何度、心から語り合える友人たちがそばにいてくれたらと嘆いただろうか。何度、仕事をやめたいと思っただろうか。何度、屋上に出て、ひとりでコーヒーを飲みながら、いつになったらこの辛さから解放されるのだろうかと、ため息をついただろうか。

 夏を過ぎる頃には真新しいスーツの姿は、皺だらけになって、朝の各駅電車の中で口を開けたまま寝ていた。出社すれば、嫌な思いをして、話す相手もいなくて、もう逃げたかった。


 努力をしなかったら自分は今ここにいない。どこかのアスリートがインタビューに答えていた。僕は僕だけでいたいだけだ。夢の中で泣いていた。だけど休日になれば慰めてくれる大切な人達がいた。

 これでいい。別に会社が全てではない。大切な人達に囲まれて生きる、それがどれほど幸せなことか。自分を認めてくれない人達とは距離をとればいい。そう思った。

 だけど、努力だけはしよう。何もしていないのに、認められないと思うのは嫌だ。


 




 緊張で強張った顔だが、純粋な目の輝きを持っている。真っすぐ伸びた背筋だが、歩き方がぎこちない。カツカツと革靴が音を立てているが、輝くその足は他の誰よりも未来に満ちている。

 心の中で手を合わせて、祈る。荒波に舵をとられても焦るな。不安定な羅針盤に胸を張れ。大いなる大志を持ってこの大海に飛び込んだのなら、いつでも逃げる準備をして、進む道を見失うな。

 ……たかが一年で何を言っている、と自分へ突っ込みを入れてみる。

 どうすれば、しっかりと伝えられるのか。伝えるべきものはなにか。なにが正しいのか。見落としていることはないか。まだ努力が実を結んだなんて、口が裂けても言えない。でも、今、やっと少しずつ仕事に向き合えていると思えるようになってきた。少しずつ、仕事とうまく距離をとって、こなせるようになってきただろうか。

 皺だらけのスーツは、諦めが悪くて、一歩踏み出して、頑張ってみた。やっぱり怒られたし、嫌な思いもした。だけど、今なら話せる相手もいるし、少しだけだが自分なりに意見を持って仕事に取り組めるよになった。どうしても苦手な人とは距離をとるように逃げた。それで全然良かった。でも全部否定するのではなくて、違いを見つけて、理解はした。

 もうちょっと頑張ってみようと思う。もうちょっとやってみたいことがある。それがこの1年の感想だ。


 もうすぐ、2年目になる。個人的に感慨深くても、大の大人から見れば、1年目も2年目も変わらないと思う。ということは、まだまだこれから大きな困難が待ち受けているということだ。事実、一昨日も昨日もグチグチ言われた。


 学生が終わることを恐れていた君へ。

 大人の社会は、とんでもなく理不尽まみれだ。怒られるし、嫌な思いもするし、なかなか気心許せる人を見つけられない。だけど、大切な人たちと共に向き合って、逃げて、進んでいけば、何か見えるかもしれない。もちろん何もないかもしれない。

 でも一生懸命に生きれば、少しずつ輝いていくと、俺は信じたいし、いざとなれば、全力で逃げればいい。

 卒業式の日、そして3月31日、どちらの日も、自分の身に降りかかってきた現実を理解できずに困惑した。4月を迎えても、夏を過ぎても、ずっと現実を受けいれられなかった。

 でも、今なら少し、言えるかもしれない。だから言ってみる。


 さようなら、学生の君へ。

 社会人の君より。

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