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映画「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」 〜狂気の世界を狂人として生きる〜

2020年1月末にようやく日本で劇場公開された「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」。公開後の世間の評判があまり芳しくなかったのか、公開二週目にして、千葉の勤務先最寄りの劇場では朝8:55分からの1日1回上映になってしまい、観せる気あんのかとKさんは一人ぷんすか。

調べたところ、さすがの永久都市東京の日比谷シャンテでは日に3回ほど上映しており、しかも毎回そこそこお客さんが入っている模様だったので、祝日だった火曜日に観に行ってきました。

感想を一言でいうと「めっちゃ良かった」です。しかも奥が深い。

テリー・ギリアムは、私にとっては映画監督よりもモンティ・パイソンの切り絵アニメ作ってた人のイメージの方が強く、映画の方は「未来世紀ブラジル」(1985)を1回観たっきりなのですね。で、そのときの感想としては、ちょっとわかりにくくても趣味に走りまくったものを作る人という印象が強かったんです。だから今回もマニア向けの、悪く言えば独りよがりな、モンティ・パイソンのホーリーグレイルみたいな映画なのかな、と勝手に身構えていたのを本当に謝りたい。

原題は「ドン・キホーテを殺した男」。ドン・キホーテとして出てくるのは、劇中で十年前に「ドン・キホーテ」を題材にした学生映画の主役を演じ、その後遺症で自らをドン・キホーテだと本気で思い込んでしまった老人。そしてアダム・ドライバー演じるそこそこ売れっ子のCM監督は、その当時の学生映画の監督でもあります。ストーリーはとても単純で、アダム・ドライバーがCM撮影中にボスの嫁と不倫したりなんやかんやあったために追われる身となり、たまたま当時の撮影現場の村を訪れたところ気の狂った老人と再会。ドン・キホーテの忠実なる従者サンチョと勘違いされますが、行くあてもないので言われるがままサンチョとして付き従うことに。爺さんと近所を旅をするうちに、アダム・ドライバーは徐々に現実だか夢だかわからない幻覚をみるようになります。そして最後は、風車を巨人と勘違いしたドン・キホーテさながら、お爺さんを敵と勘違いして殺めてしまい、彼自身がドン・キホーテとして目覚めるという筋書きです。

この映画のキモはその構造にあります。ドン・キホーテのお爺さんは、絵本の中から飛び出してきたように騎士道を大真面目に語ります。淑女に優しく、ユーモアがあり、決闘の精神を重んじる、人間が人間らしくあった「失われた古き良き時代」を体現するキャラクター。かたやアダム・ドライバーの役どころである軟弱な(しかしマッチョな)CM監督の生きる世界は広告業界。世の中で最も虚飾にまみれた、いや虚飾そのものが金になる、騎士道とは対極にある世界。そんなアダム・ドライバーが、騎士道に感化されるとかドン・キホーテの演説に感動するとかいったくだりは驚くべきことに皆無で、ただただ彼は巻き込まれて踏んづけられて、泥まみれになり、お爺さんのことは「元のとおりに戻してやらねば」と憐れんでいる。一方で、ドン・キホーテの悪夢のような世界感は、まるでコロナウイルスのようにアダム・ドライバーに感染し、侵食していきます。

この対比の中で、アダム・ドライバーが「古き良き時代」だの「騎士道」だのに対して劇中ほとんどノスタルジーを自覚していないところがポイントで、ヒーローの物語はただそれだけで魔力を持ち、関係する人を蝕んでいくのです。それはこの映画のわかりにくさでもあるのですが(なぜ彼は狂ったのか、の原因をはっきり描くことを敢えて避けている)素直にそのまま受け取れば良くて、この映画は物語が人間に作用する魔力をそのまま描いており、つまりそれは誰もが感染する可能性がある不治の病なのだと言っているのだと解釈できます。

この映画はブラックユーモア的な意味でも、本来の意味でも人間讃歌です。最後ドン・キホーテとして目覚めてしまったアダム・ドライバーが風車に旅立つシーンに観客は泣き笑いをするしかありません。劇中クライマックスに描かれる豪華絢爛な仮装パーティみたいな狂気の世界にいま我々は生きていて、何が本当で何がウソなのか、その火が本物なのか偽物なのかも誰もわからない。そんな中で、自分だけのたった一つの信念や世界観を持って生きようとすることは、それだけで、世界からみれば狂人の所業にほかならないわけです。夢に生きるとはそういうことです。

でも、例えば運が良ければあなたにもサンチョのような従者がいてくれて、隣でああだこうだと心配しながら、最期までそばにいてくれるかもしれない。それが、たった一つの真実なのかもしれません。

「ポストモダン」だとか「物語の失われた時代」だとかの言説が叫ばれるようになって久しく、なんかそれっぽいことを言っておけば賢い現代人ぽく振る舞えるみたいな風潮があるわけですが、そんなことをしゃあしゃあと言っている場合ではない、人間性とは何かよく考えなきゃ、と監督に言われた心地がしました。

そして、この現代性はアダム・ドライバーという役者なしでは成立しなかったろうと思うのです。彼は監督のインタビューでも言及されていますが不思議なほど自然に演技をする人で、言わされてる感とか演技くささがまったくない。この雰囲気は、ジョニー・デップでは出せなかったと思うのです。若い頃ならいざしらず今のジョニー・デップが演じたら、作り物めいたキャラクター感が出すぎてしまったんじゃないかな。アダム・ドライバーというちょっとだけ歌って踊れるくらいの(宴会芸が得意そうな)足の長いイケメンの普通のおじさんがドン・キホーテとして目覚めるところにカタルシスが生まれるわけで。彼のすごいところは、カイロ・レンみたいなクセの強い役も、ブラッククランズマンで演じたユダヤ人刑事のような2ブロック先の駐在にいそうな普通の人も、両方演じられるところだと思います。


(こちらのニコニコ動画はカイロ・レンの職場潜入というコメディですが、彼の芸達者ぶりがわかるのでぜひ。。)

とりあえず、制作に30年もかかったのも、結果オーライでしょう。

「テリー・ギリアム監督の集大成」とありますが、ぜひまだ作って欲しい。

ところで、観劇した次の日、職場のフランス人の同僚に「いやぁドン・キホーテついに観たよ。めちゃ良かったよ。アダム・ドライバーはやっぱりすごい上手くってイケメンで・・・」と話していたら「アダム・ドライバーがイケメン?本気で言ってる?」みたいなマジの反応をされて、まったく噛み合わなかったのですが、どういうことなんでしょうか? 

私の目が腐ってるの、それともあいつの目が腐ってるのか・・・

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