"それでけっこう"『翻訳文学紀行Ⅲ』より

本作品は、海外文学の翻訳作品を取り上げた短編集である。翻訳文学『紀行』と名付けられている通り、まるで旅をしている気持ちになれる一冊だ。作家たちの出身国は多種多様である上に、作家の出身国ではない国を舞台とした作品が多く、ふたつの円と円が重なった面積のような、猫が走り去って消えてしまった先の路地裏のような、そんな秘密基地のような独特さがある。はじめは慣れないかもしれないが、ひとたびその暗さに目が慣れてしまえば、国境をすいすい越えていくような軽やかさと高揚感で心と体が満たされるだろう。

その中のひと作品、"それでけっこう"はスウェーデン生まれの作家、カール・ヨーナス・ローヴェ・アルムクヴィストによって書かれた作品である。大鋸瑞穂さんという方によって、スウェーデン語から日本語に翻訳されている。


舞台は蒸気船イングヴェ・フレイ号。スウェーデンのストックホルムから船が出航する場面から作品は始まる。主な登場人物は2人。若い軍曹とガラス工の娘。軍曹は上流階級には属さないものの、その身なりの良さ、品の良さから上流階級とも関わりがある人物である。一方ガラス工の娘の方はというと、船が出航する直前に叔母と一緒に船に乗り込もうとしたが、叔母は間に合わず、娘は叔母と離れ離れになってしまう。娘はそのような孤独の中、令嬢らしい婦人帽を取り、代わりにスカーフを頭に巻くことで女中に扮することを選ぶ。その姿を見た軍曹は、彼女が一体何者なのか気になり始め、次第にその美しさと聡明さに惹かれていく。

第一章では、軍曹の好意をことごとく無碍にする娘であるが(その描写はさわやかですらある)、第二章では寄港した町で2人で食事を取ることになる。話は弾み、お互いの呼び方について話し合うなどまさに恋の始まりを感じさせる時間が描かれる。しかし、そんな楽しい時間はあっという間。蒸気船の出港の合図が聞こえる。

「だめだめ!時間通りに戻らないと。すみません、いくらですか?」彼女はそう言いながらスカーフを巻いた。ハンカチを引っ張り出すと、そこから財布の角が顔を出した。
「えぇっ」軍曹は言った。「それは僕がーー」
「早く、急いで!」彼女は彼の前を横切ってひとりカウンターに向かい、会計係に食事代がいくらであったかを尋ねた。
「一リクスダールと二十四シリング(七十二シリングに値する)です」
「はいどうぞ、お嬢さん。(彼女は緑の絹の財布から銀貨を取り出した)私の計算では三十六シリング、それで一人分ね。ではごきげんよう、娘さん!」

彼女の素早い判断力、性別に関わらず公平を重んじる価値観、そして、それを迷わず行動に移せる毅然さ。2022年の今でもこのようなさっぱりとした振る舞いができる人は多くない。しかし、私が特に印象に残ったのが、その後の彼女の仕草だ。店を出た後、彼女は次のようなひとことを発する。

「こんな素敵な場所に連れてきてくれてありがとう」彼女は美しい、控えめな声でそう言うと、そっと拍手をするように彼の手に触れた。

「そっと拍手をするように」という表現に彼女の愛らしさが凝縮されているように思われる。経済面において、男女が同じ天秤でバランスを保つこと。男性が男性であること、女性が女性であることを認め、受け入れながら、お互いの性質を尊重し、むしろよさを引き立て合い、違いを際立たせながら、同時に一つに溶け合っていくこと。経済面の公平さと男女の結びつきの関係において、彼女の立ち振る舞いが示唆するところは大きい。

2人の関係は、2人ともが中途半端な階級の出ということもあり、その関係性は少し独特である。しかし、お互いに惹かれ合いながら、相手のいない場所では相手に心を奪われ、相手と共にいるときは心をあわせ、想像と違う点に驚きながら会話を酌み交わす。結局のところそれが恋愛の醍醐味ではないだろうか。他の人がなんと言おうと、なんと思おうと、本人たちがそれでよければ、「それでけっこう」なのである。


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