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ヘルダーリンとベートーヴェン

 2020年にアメリカのインディアナポリス交響楽団は、フランスの作曲家、ギョーム・コネッソンにベートーヴェンの生誕250年を記念して「第九交響曲と対になるような新作」を依頼した。コネッソンは、ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンの詩をテキストとする合唱曲「Heiterkeit」を作曲し、インディアナポリス交響楽団のマエストロ、クシシュトフ・ウルバンスキーに献呈した。「Heiterkeit」は2022年4月8日にインディアナポリスで初演されている。

 ウルバンスキは2022年11月18日にオランダ放送フィルハーモニー管弦楽団を指揮し「Heiterkeit」の欧州での初演を行った。この時の演奏はオランダ公共放送のインターネットサイトで聴くことができる。そしてウルバンスキは2023年4月15日に東京交響楽団と東響コーラスを指揮し、「Heiterkeit」の日本初演を行った。

 ベートーヴェンとヘルダーリンは同じ1770年生まれである。ベートーヴェンは作曲家としての様々な困難を克服し多くの傑作を残した。しかしヘルダーリンは詩人として早熟の才能を示すも、やがて精神を病み、後半生は長く塔に幽閉された。二人は同じ時代を過ごしながらも、対照的な人生を歩んでいる。

1770年

 ベートーヴェンは1770年12月16日にケルン近郊の都市ボンで、宮廷歌手の父と宮廷料理人の娘である母の第二子として生まれた。ベートーヴェンは父から厳しい音楽教育を受けつつ、1778年にはケルンで演奏会デビューを果たした。
 1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンに行き、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母の危篤の報を受けてボンに戻ったが母はまもなく亡くなり、その後に父のアルコール依存とうつ病は悪化していった。

 ヘルダーリンは1770年3月20日、ネッカー河畔の町ラウフェンで、尼僧院の説教師の父と牧師の娘である母のもとに長男として生まれた。ヘルダーリンが2歳のときに父は病死し、2年後に母は再婚したが、この義父も結婚から7年後に高熱がもとで世を去った。
 ヘルダーリンは親の後を追い聖職の道に進むべく、18歳となった1788年、テュービンゲン大学神学校に入学し、このころから詩作にも取り組んだ。

シラーとの接点

 シラーは1759年生まれのドイツの詩人、劇作家、思想家で、自由を求める精神を描いた多くの詩作や戯曲で当時のドイツ国民に大きな影響を与えていた。
 1789年にボン大学に入学したベートーヴェンはシラーの作詞した『歓喜』への作曲を試みはじめた。ベートーヴェンは酒におぼれる父に代わって家計を支え、2人の弟たちの世話に追われる日々を過ごしていたが、1790年にはハイドンに才能を認められ、1792年には弟子としてウィーンに招待されるなど、音楽家として順調な道を歩み始めた。1792年には父が死去したが、ベートーヴェンは父の葬儀にも戻らず、ウィーンで学び続けた。
 
 ヘルダーリンはテュービンゲン大学に入学した年に発表されたシラーの詩「ギリシアの神々」に大きな影響を受け、シラーと交流を始める。1791年に「調和の女神への賛歌」などの詩で詩人としてのデビューを飾る。シラーに紹介された家庭教師の職につきながら、1793年から代表作となる『ヒュペーリオン』の執筆をはじめた。

苦悩

  ベートーヴェンはウィーンに来てから作曲家として評価され、1800年には交響曲第1番を発表する。一方で、20代後半頃より聴覚が徐々に失われるという困難に直面し、1802年には遺書(いわゆる『ハイリゲンシュタットの遺書』)もしたためた。しかし、彼自身の強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって数々の傑作が生まれた。

 1796年、26歳のヘルダーリンはフランクフルトの銀行家ゴンタルト氏の長男の家庭教師となったが、ゴンタルト夫人のズゼッテと不倫関係に落ちた。ズゼッテは小説「ヒューペリオン」のヒロインであるディオティーマのモデルと言われている。この不倫がゴンタルトに発覚し、1798年にヘルダーリンは家庭教師を辞した。その後もズゼッテとの逢瀬を続けながら詩作を続けたが、徐々に心労がヘルダーリンの心身をむしばんでいった。1801年6月、ズゼッテ死去の報を受け、この頃より統合失調症の重い発作に見舞われるようになる。

晩年

 ベートーヴェンは40歳頃には全聾となったが、そうした困難の中でも交響曲第9番やミサ・ソレムニスといった大作を発表した。1826年に肺炎を患い、翌1827年3月26日に58年の生涯を閉じた。その葬儀には2万人もの人々が参列したという。

 1804年、34歳のヘルダーリンは宮廷図書館に職を得たが、1806年からの異常な言動によりテュービンゲン大学医学部精神科に入院し、同年に『ヒュペーリオン』の熱心な読者であったエルンスト・フリードリヒ・ツィンマーに引き取られた。ヘルダーリンの部屋は川に面した塔の中にあり、その後の40年近い晩年をこの塔の中で過ごし、1843年に73歳の生涯を閉じた。

 同じ年に生まれ、ともに芸術の道を歩んだ二人であったが、晩年は対照的な境遇であった。その二人の作品に、音楽を通じて出会う場を作ったギョーム・コネッソンの心のうちはどのようなものであったか、大変興味深いものがある。

参考文献
ヘルダーリンと現代 高木昌史 青土社 

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