BUMP OF CHICKENの「ロストマン」→「arrows」→「ゼロ」の迷子三部作の歌詞の考察

「ロストマン」→「arrows」→「ゼロ」の迷子三部作における個人的考察がある程度まとまったので記録する。あくまで個人的な解釈なので、その正否は不問に付していただきたい。


まず、ロストマンは人生の次のステージに旅立ったものの、旅立つ前の幸せだった過去への思いが捨てられない状況がはじまり。輝かしい「あの日」への憧憬を断ち切れずに前に進めていない状況。

例えるなら、学生が社会に出たものの、楽しかった学生時代に戻りたくて迷っているような感じ。

ただ、もう過去には戻ることは出来ないことを認めて、正解かはわからずとも前に進むことを選択する。その結果コンパスは動き出し、旅路の果てに選択の「正しさ」の証明と、過去との「再会」を祈る気持ちとともに歩みを進めていく…その変化の過程を描いたのがロストマン。

この曲からは、過去には戻ることはできない、故に迷いながらでも前に進むしかないんだ、という諦念の入り混じった覚悟を感じる。もっともその覚悟は「再会」を祈る形で過去との決別を保留しているように、幾許かの揺らぎを内包しているのがリアル。当然だ、過去はそんなにデジタルにバッサリ捨てられるものではない。


迷い、揺らぎながらも旅路を進めることにしたロストマン。この揺らぎが第二部であるarrowsへとつながっていく。


続いてarrows。不燃物置き場に捨てられているのは前述の「あの日」すなわち捨てたはずの過去。捨てても形を残し続ける不燃物と忘れられない過去の思い出をかけているのだろうか。

そしてリュックに詰めた嫌いな思い出は、旅立った後の日々の記憶。このとき「僕」は旅路を進みながらも未だ過去への思いは断ち切ることができず、いま自分がいるステージの周囲の物事を愛することが出来ない状態にある。

その中で、同じように人生に迷っている「君」に出会い、変化が生まれる。

お互いの嫌いな思い出を共有した結果、嫌いだと思っていた思い出は自分を形作るほどに価値のある物事の集大成となっていたことに気付く。そして、迷子の「君」と共に歩みながら気付きを得たことで、はじめて「過去>今」の式が「今>過去」へと入れ替わる。

こうして、「僕」は今の自分を肯定できるようになり、いつか「君」と共にあの「弓」すなわち「虹」を渡ることを一つの終着点として見出す。


では、この「虹を渡る」という意味は何なのか?
そのアンサーは三部作の最終章であるゼロにうたわれている。


最終章、ゼロ。終わりなのにゼロというタイトルがこの曲の全てを語っているのかもしれない。

迷子の足音は消え、祈りの唄だけが残される。仄暗い曲調からも悲劇的なエンディングが想像されるが、そう判断するのはあまりに早計だろう。

かといって、歌詞の表層をなぞるだけで「かけがえの無いあなたと共に美しい虹へと辿り着き、七色の灯火が道標として残ったとさ…めでたしめでたし…」と、この曲を単純なハッピーエンドとして捉えることもまた早計だろう。

そもそも、続いていく人生はバッドエンドとハッピーエンドの二項対立で描けるほど単純なものではない。

厳然とした現実世界の加速するスピードの中にあって、もはや迷いを続けられる程の余裕は無くなり、それでも正解は未だわからない。ただ、その中で唯一確かなのは「あなた」と共にいたいという思い。その思いには、旅路で迷いながら色々と切り捨てて探した果てに見つけたんだ、という絶対的な信念を感じる。たとえそれが手にしたかったものかは解らずとも、自分にはそれが間違いなく必要なんだ、という意志の表明。

その気持ちに気付いたことで、ようやく虹の麓に辿り着き、迷子の旅路は終わりを迎える。つまり「虹を渡る」とは「旅路の果て」に辿り着くということ。「あなた」とともにいることで迷いの旅路から卒業できた迷子。

しかし、その旅路の果てにはロストマンが祈った「正しさ」を証明できる要素も、過去への「再会」も存在しない。結局、どちらも手にすることは出来ず、ロストマンは旅路の終わりを選択した。消えない喪失感をせめて祈りの唄として、虹の麓に残して。

掴みたかったものを諦めて進んでいくこと、それはゼロに等しい程の喪失だ。その選択を肯定してくれるのが、この曲である。決して鮮やかなハッピーエンドではないけれど、かといって絶望的なバッドエンドでもない。ありふれた人生のちょっとした寂しくて美しいストーリー。

月並みな言い方をすれば“大人になる”までの人生の迷いの物語。その迷いの機微がこの3曲に刻まれているのではないだろうか。

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