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[小説] 『鱗』〜ウロコ 10話〜12話。生まれ変われる事など出来ない、其れが出来るなら・・・・・。


        10話


『加賀見さんCTの結果です』


 どうだろう、1拍か2拍か、会話に少し間があったので不安にさせた。

「左右とも炎症しているのですが、左の下の方が特に悪いようです」

「この状態からですと、それなりに時間が掛かると思いますね」

「恐らく1週間は、様子を見てからの評価でしょうかね、頑張りましょう!」

 1週間位で退院出来ると勝手に思い込んでいただけに、そこには、かなりの開きがあるのだ、やはりおいそれとはいかない、灸を据すえられた気分になった。


 そう言えば仕事なり会社なり取引先にも、病気だとか入院した事を一切教えていなかった。

 突然の入院騒ぎなので当然と言えば当然なのだが、それは加賀見啓介、人生で二つ目の仕事として小さいながらも、音楽制作やコマーシャルのナレーション、その他アニメの音楽制作等を請け負う制作会社を、かれこれ20年近くやっている。


 営業から資金繰りから、タレントのスケジュールやら、 CMのコーディネート、レコーディングから、編集確認仕と接待まで、其れはそれで、仕事は結構ある訳で、そんな状況下に於いて、現在加賀見啓介は、完全に行方不明になっているのだ。


 捜索願いが出てないだけで、音沙汰無し、而も携帯は鳴るも声は聞こえず、メールをしても五里霧中(ごりむちゅう)……倒れたのか……死んだのか……。


 事務所には28の女子と31の男子がいる『やっ・ぱり・連絡・しとく・かな……』

 それからクライアントの藤井さん、現在進行している大きな仕事で盛り沢山だし、現状を伝えておかなければいけないなと、横たわりながら、数人にはメールを送る事にした。


 メールで現状を伝えると直ぐに反応があり、『海外ロケで、ブラジルとフランスとロシア辺りを、世界一周規模で回るから、暫く日本には戻らない』とでも、言っておくようにと。

 そんな感じで乗り切る事にして、果たして上手く行くのか、一抹の不安を抱えての『突然入院対策本部』は、メールのみで、それなりに稼働はしていたのだ。

 そんな時に、循環器の岡田先生と若い岩崎先生が、カーテンを開けて立っていた、珍しく呼吸器と循環器のお三方が鉢合わせした。


 「先・生、ベ、ベッドに・座る・事が・出来る・ように、なりま・した、うー」


「あーそれはですね、横になるのが辛いと言う、心不全特有の症状の一つなんですよ……」


「そ・そう・ですか、てっ・きり・良い・方向・なの・かと・思って・いま・した、んー」


「『心不全』は数値もそうですが、相当悪い状況ですからね、加賀見さん!」


 実際、ベッドで横になっている体勢が辛い時があり、座るととっても楽になるのだ、自信満々の一言だっただけに、ベッドの上はありったけの寂寥感(せきりょうかん)で埋め尽くされた。


『なん・だ、そう・なん・だ、あー、はー、うー』


 入院から6日目。この日は嬉しい出来事が一つあった。

 其れは水と麦茶に関して、一旦のゴールが見えたと言う事実だ。それは普通に喉が渇きを感知し、口と身体が納得する水分量を飲んでも良いとの、お達しが出たのだ。


『嬉しい————、普通に飲めるんだ————』


 体温計のデジタル数字は37度9分と、熱だって初の37度台となり、胸の優れない感じも薄まりつつ、これで咳が、何とかなれば相当回復したと言えるだろう。

 唐沢先生がやや神妙とな顔付と、破顔一笑の中間の表情でカーテンを開けた。

「加賀見さん、相当悪いと言っていた左の肺が少しずつ回復傾向にありますね」

「そう・で・すかー良か・った・です、ふー……」

とは言え、つい2、3日前は危険な状況だったのが頭を過ぎる。

「まだ安心は出来ないですよ」


「一つ難しい事がありまして『肺炎』と『心不全』の双方がこー何ですかね、譲らないんですね、片方が治ろうとすると、片方が邪魔をするみたいな、そんな状態にもあるのです」


「そう・何で・すか、綱・引き・みたい・です・ね」


 やはりスッキリ治るとなるまでには、そこそこ時間は掛るんだと再認識していた。

「加賀見さん、まだまだ治療は続きますので、頑張って行きましょう!」

 程なくすると、小さくカーテンの端が開くと、十中八九カミさんの開け方に、義理の母が梨狩りに行ったので、採れたての瑞々(みずみず)しい幸水をタッパーに入れて持って来てくれたのだ。


 本当によだれが溢れて来るのが判った。幸水はその姿を8つに分けると、そこから更に4つに切って、乳児の口に丁度良い位の大きさでタッパに入っている。


 どうだろう、口を汚す程度の梨。普段から何気なく食べている食事や果物も、こんな風に感じる事も無かっただろうし、横断歩道にしたって車が居なければ何色だろうと、平然と渡っていたに違いなく、梨に色々と教わるとは思わないが、素敵な感覚なのかも知れないと、また一つ喜ばしい出来事に触れ、治療の役に立てばとそう願っていた。

『加賀見さん、お久し振りですね、今日の午後担当ですね。宜しくお願い致します』

『な、な、な、何と鈴木美砂ではないか!』


 最初に処置をしたエリア、鈴木さんは血圧や体温を測ってくれた時の看護師さんで、救急搬送された最初の処置をした場所。


 既に遠い日の記憶に成りかけている感覚がある、何が何だか判らない状況で運び込まれて1週間、そんな時の鈴木さん。久しぶりに見る表情は変わらず良い女で、髪を上げた感じなど完璧にヤバかったし、艶っぽい感じは健在なのだ。

 またドロドロした血液が一ヶ所に集まって来た。


『やっぱり病気は関係ないな……』 


 あの時と同じ空気を、胸一杯に吸い込んだ。

「加賀見さん、お久しぶりですね!あれから結構経ちますが具合は如何ですか」

「少しず・つで・すが、良く・なって・いる・感じが・しま・すね」


 恐らくノートパソコンには時系列に、カルテが記載されているのだろう。


『頑張って治しましょうね!』


 その言葉はとても心強く優しさに溢れ、身体の中心へ染み込んで行く薬の様に、ともすれば点滴10本分にも相当する位、効果抜群だったのかも知れない。


『鈴木さんだよな……やっぱ鈴木さん……、鈴木さんだ一番の治療薬なのだ!』


        11話


 『人生の大きな決断を迫られていた』


 それからちょうど一ヶ月位過ぎた所で社長から連絡があり、一度行った金春通りの、割烹で会おうとなっていた。

 その夜は隣に女性の姿があり、見るからに派手さや猥雑(わいざつ)な化粧のなど無い、そんな佳容な女性が静かに座っていた。


「紹介しとくよ、秘書の河村さんね!」

「初めまして、河村房子と申します、どうぞ宜しくお願い致します。」

「梶浦くん、近々発表になると思うけど、常磐自動車道も随分伸びるらしいね!」

「それにね、これは大変な計画があってね、まだまだ先の話だけどね『東京湾にトンネル』を掘って川崎と千葉県と結ぶんだよ!」

 そんな突拍子も無い事を言うのだ。今晩の社長はマシンガン状態で、弾倉には100万発、いくらでも弾は出続けただろう。

「東関道も伸びるってね、これからは千葉と茨城なんだよね!」

「伊豆方面はダメだね、道路が無いから駄目だね!」


 社長の力強い言葉で、カウンターのその場所だけ、完全に他とは気温が違っていた気がして、トイレから出て来たテカテカの社長は浦島太郎の敵(かたき)と見た。


『梶浦くん!今日は軽く回ってみるか!』


 社長自身、今日は特別に酔っていたのか、飲み疲れたのか、若干瞼がくっ付き始めると、熟睡ムードで一同タクシーに乗り、社長の自宅がある仙台坂辺りまで辿り着くと、寝間着姿の奥様は、嫌な顔一つ見せずに迎え入れ、河村さんと目が合い一安心。


 坂を下くだりながら、明治通りまで出ようと歩幅を気にして歩いていると、何でも河村さん、お父さんと社長が知り合いらしく、その関係で働き始めたと言う。

 自宅は埼玉の幸手(さって)にあり最近、三ノ輪で一人暮らしを始め日比谷線1本で通勤していた。


「河村さん、送りましょう!」

「とんでもない大丈夫ですから」

 その右手に気付いたタクシーは、反対車線から勢い良く、大きくUターンをすると、少しびっくりしたタイヤが嬉しそうに鳴らした。


『えーと、すいません、三ノ輪まで、お願いします』


 車は飯倉片町から首都高に乗ると勢い良く走り、結構なスピードで景色が飛ぶ中、オレンジ色に降り注ぐ光りが車内を照らす、カーブに合わせて腕やら肩が、角度に依って弱かったり強かったりと、何度も何度も触れ合うも、揺れに身を任せ、互いに離れる事も無かった。


 まさに秋の風に変わる頃に、秘書の河村さんからの電話に、柄にも無く胸が熱くなった。


「梶浦さん、社長から伝言なんですが」

「来週11月11日に、会社で社長の誕生日のお祝いがあります……」

「立食式のパーティーなんですが、是非来て頂きたいとの事ですが、大丈夫でしょうか?」

「承知しました。僕は前日の10日が誕生日なんですよ」

「そうなんですか!先日送って頂いたお礼に、何かプレゼントでも考えておきますね」

 電話を置くと、その日は一日中なんだか嬉しくて、良く言う仕事が手に付かなかったのだ。

 どうやら何か違う感覚と感情とが、入り混じり何処か知らない闇に放出されたのか、もしかしたら自力で漕ぐ事も諦あきらめ、それはほぼオールを欠かいた小舟のように、舵も効かずに自から漂流しようとしていたのかも知れない。


 ただ一つ言える事は、銀行の日々と比較すると、生き甲斐なりやり甲斐などが、間違いなく上回っている予感はしていた。しかも社長は来週11月11日に返事を待ってもいる。


『今いる銀行よりも、君は絶対にこっちの方だから……』その言葉は父親からの、階梯(かいてい)か栞(しおり)にも似ていたのかも知れない。


『手ぶらも何だしなー』

 誕生日プレゼントに、此れと言ったアイデアも無く、多分何を渡してもそれ程、喜ぶ顔が思い浮かばないと勝手に想像していた。

 それでも白ワインが好きな事は判っていたので、ワインにしようと決めた。其れこそ初めて入る、広尾の駅前にある高級スーパーに、にぎにぎしくもワインコーナーのキリッとした目と目が合うと、ポマードで光る髪の毛に知識の量を感じ、胸の名札にはソムリエとあり、見城とKENJOHとが名札に光る。


「すいませーん!、ムルソ?ムルゾー?アレ、ムルソーって言うワインはありますか?」

「はい!ドメーヌは如何いたしましょうか?」

「全く判らないので、オススメで良いので下さい」

「こちらが良いと思います」

「えーと、濃い味なんです。この間、飲んだ時にとっても美味しくてこれもそうですかね?」

「はい、ムルソー特有の濃い味と香りですから」

「はい、それでは2本下さい」

「クロドペ?クロデペルエル?」

読めなかったがまー良いかと、レジに向かうと『27800円です』


『えっ、マジで————、高いんだ————……』


 今までそんな高級なワインを買った事など無く、これからも無いだろうと思いっていた。

「ご自宅用ですか?」

「いや、誕生日のプレゼントなので、其れらしくでお願いします……」


 2本の包みを抱かかえて、外苑西通りを西麻布に向かって歩き始めると、会社に到着するや否や、お祝いの花桶から溢れ落ちる花びらが、入り口を鮮やかに染め、女子社員達が笑顔で出迎えている。


 その中に河村さんの顔も見て取れ、幾らか視線を送ると、その先できちんと目線が合い、相当、逆上(のぼせ)ていたかも知れず、1、2秒だろう一瞬だったと思うが、それでもとても長く感じていた。

 而もちょっと訳ありの二人の様に、勝手にそんな気になっていた。


 1階は取引先やら銀行やら、様々な人間の欲望が、明石海峡の如く渦巻き、ケータリングをつまみながら冷えが緩(ゆるん)だビールを飲んでいると、社長がこちらに人波を掻き分け、迫ってくる顔が見えた。


「お誕生日おめでとうございます」

「いやいやありがとう!」社長はごった返している中、

 親指で上を差しながら、3階の役員室に行こうと促うながしていた。

「どう?それで、腹は決まった?」


 決心した訳では無かったが、もう一人の梶浦健が言う事を聞かなかった、それでも25年勤めた会社、平社員なら兎も角、このまま行けば副支店長には確実になれし、天下り先も決まっている。

 何も崖がけの上から飛び込む必要は、何処にも無いのだ、口が勝手に喋っていたのかも知れず、自ら手を差し延べ、硬い握手をしていたのには、我ながらビックリしていた。


「来年の春からで宜しいですか?」


「もちろんだよ、準備もあるだろうし、引き継ぎだってあるだろ」

 それから今後の計画でスポーツクラブ・ホテル・温泉旅館・ゴルフ場など、其々それぞれ単体の会社組織に改変するのだと、そしてグループ会社にして、7年後の78歳で引退するんだと、力強く口外していた。


「社長!何で、78歳なんですか?」

「僕の人生は七転び八起きなんだよ、もういいだろう隠居だよ!もう78って言ったら!」

「あー!確かに、そうですね!78」

「それでさー、君には言っていた通り、ゴルフ場の開発担当役員として迎えるからね!」

 給料は今と同じくらいだが、歩合制のボーナスがあるので、頑張り次第では年収は今より、グッと上がるんだろうとも踏んでいた。


 入り口で預けた薄手のコートを、硬い握手を交わした右手で、受け取ると、河村さんを探していた。そこに河村さんの姿は無く、待つのも変だし、あれこれ考えて帰ろうとしていた。外(おもて)に出て歩き始めると、驚いた事に一つ目の角に、河村さんが立っていたのだ。

 公園にある砂場の砂鉄が、蕪雑(ぶざつ)な理由で一箇所に吸い寄せられた様な気がした。

「あのーこれ、先日のお礼と、お誕生日のプレゼントです!」

 参った完全にノックアウトされ、リングに散った感じが全身を貫いたとしか言えない。


「あっ、これ月並みなんですが、ネクタイです、ごめんなさい不慣れなもので……」

「あっ、いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます」

 包みには、簡単なメモが添えてあるのが見える。

「これ、アパートの電話番号です。」

 そう言って手渡された走り書きのメモ用紙、3月までいる銀行の名前が印刷されていた。


 女房には何と言ったら良いのか、逡巡(しゅんじゅん)とした気分から、脱却を図ろうとするも、会社までの道すがら『これだ!』と言う台詞を探して歩いていた。


 魚藍坂の信号が遠くに見えた瞬間に言葉が聞こえた。

『そうだ!ヘッドハンティングの会社から、引き抜きの転職即ち栄転なんだ!先の人生も睨んだ上での再就職なんだ!』と『よしこれで行こう!』と腹を括くくった。


 この25年、本店・支店長・副支店長・上司と、何もかも絶対的に上からしか、物は流れて来ないと思っていた。しかしあるキッカケと偶然が混じり合い、どうやら下から上に行く様な話になっていたのかも知れない。


 この決断をきちんと伝え処理しなくてはいけない。それは大変な作業でもあり、会社としては当然のように引き止めたり、支店長も困っていながらも、ブレる事はなかった。


 翌年、3月20日の送別会の席に於いて、意外にも潤んだ姿に共感を呼ぶと、即席の寄せ書きが廻り始めていた、梶浦健48歳、新たなる航海の旅に向けて、大海に向け漕ぎ出した瞬間でもあった。


 梶浦健も人間なのだ、一つだけフライングをしていたのである、あの11月11日のメモ書き汗顔(かんがん)の至り、頭と胸が一杯になっていた。

 年末に向けて、1年で最も忙しい時期にも関わらず、翌週に意を決して、河村房子に電話を掛けていたのだ。


 受話器の向こう側から聞こえる、そのとても穏やかで柔らかい声に、未だかつて感じた事が無い、何か特別な潤いに触れた気がしていた。

 会社に貼られた大きめのカレンダーは、28日から冬休みの予定で線が引かれ、翌29日は自宅には戻らずに、奥湯河原の温泉旅館に向かっていた。

 季節は違えど、6月の奥湯河原には自然の蛍が飛び回り、緑色に煌ひかる体に川面が揺れる、そんな温泉風情が残っている場所の一つだ。


 踊り子のブルーのシートは鮮やかに映はえ、冬の日差しを浴びながらゆっくりと進むと、まるで明治か大正時代の色彩を残して、眼下に広がる海の先、揺蕩(たゆたう)漁船の一団、隣に座る河村房子の左手が、しっとりと暖かく感じられた気がする中、女房には、年末の特別出張と言ったが、何の疑問も持たず『いつもご苦労様、体には呉々も気をつけてね』と、その言葉も優しさに溢れていた。


        12話


 「加賀見さん『エコー検査』の結果が出ましてね、『心臓』の状況や数値ですがね、ほぼ『心房細動(しんぼうさいどう)』になっていますね」


「あー、えーあっ・そう・なん・です・か」

「何で・すか・それ?心・房・細・動……」

「先生・それ・は・どん・な病・気・なんで・しょう・か、んー」


「原因は色々とあるのですが、要するに心臓が規則正しく動いていない状態です」

「更に言うと心臓が細かく震えた状態が、ずーと続いている感じですかね」

「実は最近『心房細動』の患者さんが、とっても増えているんですよ」


「オペのスケジュールなんかは、全然取れないのが実情ですから」

「そー・なん・で・すか、んー何と・も」

「また別の検査をしますね、更に詳しく調べ、そこから対応して行きましょう、『心不全』も『心房細動』との因果関係があるので、色々とわかって来ると思います、その辺も含めて明日検査しますので、お願いします」


「…………」

「あ、それと明日の朝食は食べずにいて下さい、前にやったCT検査と同じですね、今回は造影剤を入れての検査になります、通常より大分詳しく撮れますので」

「あ、は、はい、判り・まし・た……」

「原因の一つが見つかったのでそれはそれで、良い傾向ですよ」

 何があろうと絶対に、21時の消灯を避ける事は出来ない入院病棟。その為に全てのスタッフと患者は、その時間に合わせて行動し調整をするからで、病院の基本中の基本だ。

 何時もの様に21時を過ぎ部屋の明かりも消え、静かになった時に対岸の結城さんから、何やら変な物音が聞こえている。


 それはどうしてもお弁当かお寿司か、おはぎ?確実におり詰めに入った、何かを食べる音なのだ、晩御飯もしっかりと食べた筈。


『まだ食べるんかい、いやいやそれはマズイでしょう』


『糖尿もあるのに……』


 カーテンを開けてその食べている物についてどうなのか、人間の欲望の根幹についての話をするつもりもさらさら無かったし、何だかもう言葉が見つからずにいると、後々判った事があった。

 結城さんは胃癌も患っていたらしく、ステージ4、あちこち転移も見受けられたと言うのだ、80年以上、頑張って生きて来たのだ。


 もう何も存在しない、全くの無の境地だったのかも知れない、翌日結城さんは別のフロアーに移って行かれた。

 その事が意味する理由も判らずに、一人の入院患者として襟えりを正してきちんとした姿で、病気と向き合って行こうと深く心に刻んでいた。


 とうとう入院生活も区切りの10日を迎え、自分の足でトイレに行く事が解禁となった。

 もう部屋にはおまるの姿は無く、ゆっくりとした足取りだが歩いていた。絶食から、初めて食べた食事も嬉しいが、自分の足で立っていられる喜びを半端じゃ無い。

 部屋の大きな窓からは、澄み切った空を観ていた自分がいたのだ。

 ここに来て心房細動が見つかった以上、そこからの波及も大事な要素になっていたと思う。

 この10日を境に、これからの治療の基本的な軸は、何と言っても焦らない事だ焦りは禁物で、今までも少しずつ一歩一歩確実に、の治療だったので、その辺は大人の対応をしながらも、岡田先生の言葉をしっかりと、受け止めなければならない。


 何と言っても『心臓』なのだ。


 無論ぞんざいにする事など有り得ない話で、身体を形成する上で全ての臓器が大切なのは判っているが、その中でも特に大事なエリアが、心臓である事は間違えない訳で、停止した場合に蘇生しなければ死んでしまうのだ。


 元々は『肺炎』と『心不全』で始まった関係に『心房細動』が割り込む形で、三角関係が成立して事態を更に厄介にしている様に見える。

『何だか人間と同じだなー』と感じていた、そもそも『心不全』と『肺炎』が育(はぐく)んだ絆は、お互いを必要として引っ張り合っている、どちらも失いたくないと思っているのかも知れない。


 最近の研究で判って来た事の中で、どうやら人は受精卵の中で人間の『基』が誕生する所から始まるらしい。

 そんな事は恐らく中学生あたりで知るので周知の事実だろう、しかしその『最近の研究』で見えて来た物とは、受精卵の中で契りを交わした後、そう性別も具体的には判ってない頃の『基』だ。

 その『基』からとある細胞に連絡が行くと、そのとある細胞が何かを判断をして一つ結果を作ると言うのだ。

 その結果がなんと『心臓』だった『基』から数える事、5週間目の奇跡なのだ!


 そう!、我々人間の最初に作られる臓器は『心臓』と言う事が最近の研究で判って来たらしい。

 詳しい事は専門では無いので判らないが、先生曰くそれもIPS細胞の発見がやはり人類を大きく動かしているのだと。


 「加賀見さん、あくまでも『心臓』なので、ざっくりとした考え方も危険です、慎重の上にも慎重に取り組んで行きましょう!

 どうゆう経緯で、そうなったのか既に忘却の彼方にあるのだが、加賀見啓介24、5歳当時、プロ野球の現役ピッチャーとゴルフをする機会に恵まれた。

 ある年の最多勝投手にもなった投手だ。


 日本シリーズの7戦目が終わった夜と言う、特別な日と言っても良いのかも知れない。よく行く、麻布の鮨屋に顔を出し、晩飯をご一緒する流れになっていた。

 当然と言えば当然で、こちらはマウンドの姿をテレビで良く見ているので、失礼な話初めて会った気がしないのだ。

 向こうからすれば『なんだこいつは』となるのが当たり前で、別に馴れ馴れしい感じではないと思う。極々普通に会話をさせて頂いた。


『彼も元気ならば今ちょうど64、5歳位だろうか、最近はその顔を見る機会も減ったと言うり無くなった』

 こちらは学生の時からゴルフはやっていたので、少しは自信がありつつも、ゴルフの話で盛り上がると『明日やろうよ!』と、話の流れで取り持ってくれた先輩が『じゃー何処に行く?』となる訳で、ダメ元で直ぐに良く行くコースに電話をしてみると『1組ならトップの前に出て下さいと』快諾の声で期待に胸が膨らんだ。


 1番ホールは確か358ヤード位だった、やや打ち下ろしでほぼストレートのホールだ。

 バックでやろうと言うので、黒い旗を刺し、緊張しながらも、ワイワイ言ってその場を盛り上げていた。

 啓介はドライバーを結構振った、フェアウエーの真ん中に運ぶ。

『良かったー!』

 内心ホッとしていた感覚が、今でも忘れられない。そのピッチャーの打ったティーショットは、芯を食った音を連れ立って中々落ちて来ない、

 要は一人だけ異次元の空間を激烈につらぬいたのだ。


 その時の映像は脳裏の畝(うね)に蒔(まか)れた種の様に、たっぷりの水分と栄養を蓄え育つ太い茎の様、力強い記憶としてとても強く焼き付いている。


 視力が其れ程良い方では無いと思うが、その球筋の行方ゆくえは、とてもはっきりと追える事が出来たと思う、激烈なドライバーショットは何と、直接グリーンに乗るとボールは奥に転がり、驚いた事に白い杭くいの向こうへと消え去ったのだ。

『OB、OBなのだ』キャディーさんも、余りの出来事に一言も発せずにいた。

『え〜358ヤードだよ————』

 そんなゴルフは見た事が無かった、あまりにも可笑しくて完全に空気までもが止まったかに見えた。

 プロスポーツ選手は皆そうなのか、完全に空気が止まったのだ。一流のアスリート選手とは全く違う生き物なんだと、まさかまさかのナイスショットが、しかも奥のOBとは聞いた事が無く、強烈な記憶として残っていた。

 この『肺炎』やら『心不全』に『心房細動』も『OBにならないで〜と』ベッドの中で、一生懸命祈っていたのだ。

『358ヤード、あり得ない……』


       13話につづく


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