読書感想文は、翻訳の練習だったのかも!
僕の受けた義務教育における読書感想文を書かせる授業、そのプロセスに、強い不満があります。
書き方の参考例を、せめて100種類は紹介してからでないと
「何を書いたらいいのかわからない」
「どうして『面白かった』だけではダメなのかがわからない」
ストレスとなり、勉強嫌いが加速するだけ。
読書感想文がどういうものか、すでに知ってる大人にとっては
「思ったことを書けばいいだけだよ」
「これ以上わかりやすく説明しようがないよ」
と思うんでしょうけど。
読書感想文を書かされる子どもにとっては
「何を求められてるのか具体的に言ってもらえなくてしんどいやつ」
になりやすい。
「たとえばこういうやつ」
を大人が見せたがらなかったのは、おそらく
「たとえば桃太郎なら、鬼と戦うなんて勇敢だなあと思いました、とかだよ」
と伝えたとして、そのまま
「鬼と戦うのが勇気があってすごいと思いました」
と「思ったこと」の部分まで例を真似てしまうのを恐れたためだと思う。
その子が感じたことをその子に書かせるためには、その子自身が自分の中から引き出して来る以外にない。
変に手助けをしたら、本当の感想が表面化しない。
なんて思ったんだと思う。
でも「やりかた」の説明が不十分だと、本末転倒で、子どもは
「なんとか規定の文字数に達さなきゃ」
としか思わない。
これでは読書感想文を書くことを楽しむどころではない。
「読書感想文を書く」という過程が「一刻も早く逃れたい苦行」になってしまう。
本を読み終わったあとに苦行が待っているなら、本を読むことも憂鬱なものになる。
勉強嫌いが加速するばかりか、読書離れをも加速させてしまいかねない。
本を読むのは本来、楽しいこと(それも極上の)であるはずなのに。
そして感想を人に伝えることもまた、本来、楽しいこと(読書と並ぶか、もしかしたら、それ以上に)であるはずなのに。
本を読みたくないし、感想を伝えたくもない。
そう思わせるよう、仕向けているようなものでは?
読書感想文には
「何をどう思ったのかが、わかりやすく書かれているかどうか」
という評価基準がある。
でも優劣をつけて「よい感想文」を示してしまうと、子どもにとっては「よい感想」と「わるい感想」があるように捉えてしまいやすいのではないか?
感動すべき作品はない。
感動する、しないは自由。
物語を好ましく感じるのも、不快に感じるのも、人それぞれ、感性による。
恋愛をしたことがない人が恋愛映画を見てもピンとこない確率は高いし、これまでの人生経験によって理解できる度合いは変わるはず。
作品の背景となる時代や国や文化をあらかじめ理解しているかどうかも大事だろうし。
書き手の意図を深く汲み取るのも「たまたまそうできた」だし、
「何の話なのかさっぱりわからなかった」と感じたとしても「たまたまそうなった」であって、
優劣はない。
面白いも、つまらないも、自分なりの感じ方で感じておけば良くて、
そういう自由が、読書にはあるのに。
物語を理解できれば理解できるほどえらく、
面白いと思えれば思えるほどえらく、
感動できれば感動できるほどえらい。
みたいな価値観が植え付けられてしまうんじゃないか?
自分はあまり頭が良くないから、読書に向いてない。
読んだって、どうせ内容を充分に理解することができない。
そういうふうに思ってしまうんじゃないか?
自分が頭が悪いと思うなら、なおさら本を読むべきなのに。
と、前置きはこのへんにして、
読書感想文を書かされていたのは、翻訳の練習としてだったのかも、
っていうタイトルの話をします。
「面白かった」
「つまらなかった」
だけだと、
何をどう解釈して、
何をどう感じて、
何をどのように理解して、
そう思ったのか、
が伝わらない。
読書をする前とした後で、心にどういう変化が生じたか。
あるいは、生じなかったか。
そもそも出てきた言葉が難しくて、読書はしてても、その内容は全く理解できていない、というケースもあるはず。
理解できないからつまらなかっただけで、誰かがわかりやすく説明してくれれば、面白いと思えるかもしれない。
理解できることが増えれば増えるほど、面白がれることも増えるように思います。
日々がつまんないと感じているとしたら、それは、日々がつまんないからではなく、
「日々から面白さを見出す能力」
が不足しているせいかも。
読書でも、誰かから受ける説明でも、なんでも、 伝えられたことを、
自分なりの言葉に置き換えて、さらに他者に説明できるなら、
「理解できている」と客観的に判断しやすいですよね。
翻訳の意味をネットで検索すると、こう書かれてました。
1 ある言語で表された文章を他の言語に置き換えて表すこと。また、その文章。「原文を―する」
2 符号やわかりにくい言葉、特殊な言葉などを一般的な言葉に直すこと。「技術用語を―して説明する」
「理解できること」と「理解できないこと」のあいだには
「今のままだと理解できないけど、わかりやすくすると理解できる可能性のあること」
があって、
「理解できないこと」を「理解できること」に変えたり、近づけたりするための作業が「翻訳」なのかも。
通訳の仕事をしてる人だけが「翻訳」をしているのではなく。
「翻訳」は、程度の差はあれど、誰もが日常的におこなっていることのひとつなのかも。
「翻訳」という言葉を翻訳すると「わかりやすく伝える」になる。
「わかりやすく伝える」が上手になれば、親しい人と言い合いになった場合でも、
「自分はケンカをしたいわけではない」
ということを、相手にわかりやすく伝えられて、仲良しのままでいられるかもしれない。
「伝わる人にだけ伝わればいい」
「わかる人だけわかってくれればいい」
というのは優しくなくて、 コミュニケーションは「伝えようとする」なので「わかりやすく伝えようとする」は「歩み寄り」で、
そこに労力を費やせる人は「やさしい人」なのかも。
自分が理解できてることを、理解が困難な人に理解してもらおうとする、わかりやすく伝えようとする作業は大変で、何しろ自分はもう理解できていることなので、 めんどくさくて、つい
「これ以上わかりやすく説明のしようがない」
と言いたくなってしまうのかも。
僕は日頃、話しかけられても、スッと理解できることが滅多になくて、たいてい
「どういうことですか?」
と説明を求めるし、
追加で説明されたこともまた、ほぼ理解できない場合が多いんですけど、
「もっとわかりやすく説明してください」
というのは「歩み寄り」だと思うんですよね。
理解する気がないならテキトーに
「わかりました」
と言っておけばいいわけだし。
理解できたか理解できてないか、相手にはわからないんだから。
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