ターニングポイントはたぶん行ってもいない朗読劇。

一年程前の朗読劇・・私はこれには参加できなかった。
抽選には当たらない、なにより東京へはコロナ禍のなか、参加できるはずもなく、いじけながら、Twitterで様子を眺めていた。
その頃はまだ、高橋一生さんに夢中になりつつも、少しまだ、後ろ髪をひかれる存在があった。HKさんだ。

ちょっと話が逸れます。
私は、HKさんのファンだった。きっかけは2018年春のあのドラマ・・。
舞台にも行き、過去作を漁り、映画にいたってはサイリウム(ペンライト)を持ち、応援上演にも行って大騒ぎした。
今思えば、『○○の屑』(主演俳優が逮捕され上映中止)が上映され、
コロナ禍もなく順調に供給が続けば、まだファンでいたかもしれない。

供給が枯渇気味だった頃、主だった過去作を見終わり、作品の好き嫌いが分かれ始めた。作品に恵まれないような気もしたし、ドラマもあまり楽しめなくなってきた。Twitterでの一部フォロワーさん達の振舞が気になり始め、私は彼から少し気持ちが離れて始めてた。そこで、せっかく契約した配信で何か面白い作品はないかと思い始めた。
そこでまず、見始めたのが高橋一生さんの『僕らは奇跡でできている』だった。個人的に自然や動物や植物が好きで、このドラマには凄くはまった。
『僕らは奇跡でできている』は、お話自体が自分自身の救いになったし、それまで自分が知っている高橋一生さんとはまったく違った高橋一生さんに逢えた、もっと早く出会いたかったなあと、心から思えた。
私が知っている高橋一生さんと印象が違い過ぎた。そこからは坂を転げ落ちるように、深みに嵌って行きつつ、短い間でも追い続けたHKさんに未練が残ってた。

そして偶然にもHKさんと『ウイニングボール』というラジオドラマでご一緒されていたことを思い出した。録音もある。
朗読について、ラジオドラマの高橋一生さんの印象は、
感情を込めて演技をするHKさんと比べて、やや淡々とした感じがした。
俳優さんとしてHKさんよりは格上のはずなのに、平易な感じがしてちょっと不思議だった。・・この時、素人の私にも違いがはっきり解るくらい、表現に明確な差があった。意図的なことであったはずだ。
その時はわからなかったけど、今は解る。受け取る側に対して、余白を持たせる、行間案件ですよね、想像という余韻が持てる。

前置きが長くなった。

その頃、とある人気コラムニストの方が
『もう忖度した記事は書きたくない』という趣旨のツィートをされ、
その後、朗読劇のHKさんの事を『一番感情が伝わった、好き』という趣旨の
ツィートをされた。ファンは最上級に喜んだと思う。
思うというのは、私はそうは思わなかったからだ。

コラムニストとして普段はお仕事にされているのだから、依頼された称賛文章を、的確な表現でお書きになるんだろう、それがプロだ。
ただ、私にとって、その時比較された中に高橋一生さんも含まれていたこと、それがHKさん離れを完全なものにしてしまった。
そのことがきっかけで、逆に私自身がHKさんついてツィートすることがあまり出来なくなってしまった。自分が何か忖度してツィートすることが解ってしまったからだ。もう、さほどHKさんのフォロワーさんと共感できることを呟けないな・・と。

ネガティブな文章になってしまったけど、今が楽しいというのは
微妙なバランスの上にあるんだな、ってつくづく思う。

私は一日に何度もtwitterを開く。
誠実でありたいと思う。正直にぶちまけるのは違うぞと思う。
ファンも含めての推し事だと思う。
一生さんの沼は楽しい。
ギリギリを攻めてる大喜利も大好きだ。
愚痴もそんなに嫌いじゃない、吐き出すことで救われるし、
思わない解決が見つかることもあるよね。

長々と失礼いたしました。自分の気持ちも整理できました。










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