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ナゴルノ・カラバフ紛争の背景と、アルメニア・アゼルバイジャンを巡る国際関係

ナゴルノ・カラバフ紛争の現状は連日報道されているものを追った方が手っ取り早い(情報戦の結果としてフェイクニュースも多いのだが…)ので、本記事では前提知識となる歴史的背景と国際関係をまとめることに重点を置いている。

地理

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ナゴルノ・カラバフ地域とは、コーカサス地方の二つの国家、アルメニアとアゼルバイジャンとの間にある地域のことである。まず、コーカサス地方がどこかというところから話を始めよう。
 コーカサス地方は、ロシアとイランとの間、西が黒海、東がカスピ海に面している、ややすぼまった形をした地域のことである。
 コーカサス地方は山脈の多い地域である。ナゴルノ・カラバフ地域の「ナゴルノ」も、ロシア語で「高地の、山岳の」を意味する形容詞「Нагорный」のことである(つまり、固有名詞どころか名詞ですらないので、同地域を「ナゴルノ」と略するのは不適切)。中でもその中央部にはコーカサス山脈という大きな山脈が走っており、この山脈を境に北側を「北コーカサス地方」、南側を「南コーカサス地方」と呼称することもある。アルメニア・アゼルバイジャンとも、南コーカサス地方の国である。

両国家の基本事項


人口:アルメニアは約290万人、アゼルバイジャンは約1000万人
政体:両国とも名目上は共和制、ただし、アゼルバイジャンは事実上の一党独裁
一人当たりGDP:アルメニアは4,528米ドル、アゼルバイジャンは4,689米ドル
失業率:アルメニアは17.7%、アゼルバイジャンは5.0%
主要産業:アルメニアは農業、宝石加工、IT産業、アゼルバイジャンは石油・天然ガス、石油製品、鉄鋼

特記事項


 アルメニアはエネルギー資源を国内で算出せず、また、周辺国との関係から、資源を輸入することも困難である。このため、国内の電気需要の4割を、メツァモール原子力発電所の老朽化した原発に依存している。
 アルメニアの国内の状況ははっきり言って悲惨なものだが、一方でアルメニア人はディアスポラ(民族離散)の例が知られている。11世紀の東ローマ帝国によるアルメニア王国の征服や、20世紀のトルコによるジェノサイドの結果として発生しており、ディアスポラの結果世界中に離散したアルメニア人が現地で財産を築き、政治的発言力を得ることも多い。
 アゼルバイジャンは首都のバクー周辺が大規模な石油・天然ガスの産出地帯であり、これが主要産業となっている。

歴史


①19世紀:ロシアの南下
 ロシア帝国は南下政策・植民地政策の推進のため、二度にわたりペルシャ(イラン)と戦争。いずれにも勝利し、当時ペルシャの支配下だったコーカサス地方を獲得した。

②20世紀初頭:ロシア革命と独立運動
 ロシア革命は、ロシア・ソビエトの歴史ではロシア帝国の崩壊からソビエト連邦樹立に至るまでの一連の出来事という位置づけだが、その裏で、ロシア帝国各地で民族自決の流れに基づいた独立運動が起きていた。
 南コーカサス地方では1917年にグルジア・アゼルバイジャン・アルメニアの民族主義政党が、「ザカフカス委員会」を結成、翌年の4月に委員会主導で南コーカサス地方一帯は「ザカフカス連邦共和国」として独立を宣言した。
 しかし、民族主義政党間の内部対立によって同年5月にグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの三国に分裂。この際アルメニアとアゼルバイジャンとの間でナゴルノ・カラバフ地域の領有をめぐる紛争が勃発している。
 こうした独立の動きは南コーカサス地方に限ったことではなかった。当初モスクワのボリシェヴィキ政権は1917年に「ロシア諸民族の権利宣言」を発表するなど、各地の民族がロシアから独立する自由を認めていた。だが、1918年に「勤労、被搾取人民の権利の宣言」を発表。ここで諸民族の自治を認めた連邦制を提示し、諸民族の再統合に乗り出すこととなった。
 内戦の趨勢はご存じのとおりボリシェヴィキ側の勝利に終わり、南コーカサス地方でも1920年にアルメニアとアゼルバイジャンの双方でソビエト政権が樹立した。
 翌年には国境の策定が現地ボリシェヴィキ政権によって行われた。ここでナゴルノ・カラバフ地域の領有権はアルメニアにあるという決定が一度下るも、アゼルバイジャン側の猛反発を受けたことと隣国トルコへの配慮から、翌日にアゼルバイジャン領とする逆転裁定が下り、禍根を残すこととなった。

③20世紀中ごろ:スターリンの時代
 ソビエト連邦下における各民族の権利は時代によって変動した。そして、民族の権利が最も抑圧されていたのが、スターリンが権力を握る1920年代から1950年代初頭までの期間だった。
 そもそもソビエト連邦は結成当初、あくまで対等な共和国からなる連邦というスタンスだった。これがスターリンの大ロシア主義を受けて変質し、ロシアを頂点とする連邦構造となったのである。共通言語としてロシア語が採用され、一つのシステムとしてソ連を動かすために農業の集団化や地方搾取構造が推進された。
 また、悪名高い1930年代の大粛清も民族運動に影を落とした。これは各共和国の成立に携わった古参ボリシェヴィキが粛清の対象になったためで、各共和国の発言力は有力者の喪失により低下した。
 スターリンは1953年に死去。その後彼の政策の一部は「スターリン批判」の流れの中で見直され、民族の自治権も拡大したが、彼が生み出したロシアを頂点とする連邦構造はソ連崩壊まで受け継がれた。

④20世紀末:ソ連崩壊と民族運動
 1985年に書記長に就任したゴルバチョフの時代は、ペレストロイカやグラスノスチといった改革政策が有名だが、これはソ連においてそれまでタブーとされてきた種々の問題を議論の俎上に乗せることが可能となったとを意味する。民族主義運動もその争点となった。
 各地で独立運動が盛り上がった1988年、当時アゼルバイジャンの支配下にあったナゴルノ・カラバフ地域でも、そこに住むアルメニア人が同国からの分離・独立を要求する運動を開始した。これを受けて同年にアゼルバイジャンの都市スムガイトにおいてアルメニア人の虐殺事件が発生。一方でアルメニア側でもアゼルバイジャン人の殺害事件が起きていたとされ、後に「ナゴルノ・カラバフ戦争(紛争)」と名前がつく紛争の起点はこの年とされている。
 ロシアのソビエト政府は、民族問題綱領の策定(1989年)・新連邦条約案の作成(1990年)といった飴と武力弾圧という鞭によって対応した。しかし、「飴」は各地の独立を認めない、ナゴルノ・カラバフ地域の帰属変更も認めないと、運動当事者側の満足のいくものではなく、武力弾圧は当然独立派の反発を招いた。
 ある種反発の象徴といえるのが、1990年にソ連軍がアゼルバイジャンの独立主義勢力に対して実施した武力弾圧である。この時のソ連軍のアゼルバイジャン入りの名目は「バクーで発生したアルメニア人ポグロム(組織的虐殺)」への対応であり、当時既にアゼルバイジャンと紛争をしていたアルメニア側はソ連を賞賛しそうなものだが、アルメニアの独立派「全民族運動」は、ソ連軍の行動を「アゼルバイジャンに対する主権侵害である」と非難している。
 独立運動は収まらず、1991年にはロシア内で保守派のクーデター騒ぎが勃発しゴルバチョフの求心力は低下した。結果エリツィンへの権力の移譲がなされ、同年末、エリツィンはウクライナ・ベラルーシの首脳と独立国家共同体(CIS)の創設協定に調印。ソ連消滅が宣言された。
 この結果アルメニア・アゼルバイジャンの双方が独立したが、ナゴルノ・カラバフ地域は独立できず、帰属についても言及されなかった(強いて言えばソ連時代から変わらずアゼルバイジャン側にあるというのが国際的な解釈)ため紛争は続いた。国力差はアルメニア<アゼルバイジャンだったが、軍事的にはソ連崩壊以前から密かに準備を進め、かつロシアの支援も受けることができたアルメニア側が、ソ連崩壊で軍システムを一時完全に失ったアゼルバイジャンに対し優越、1994年にロシアの仲介で、アルメニアが同地域の大半を実効支配する形で停戦した。
 紛争後、アルメニアはナゴルノ・カラバフ地域において大規模なジェノサイドを実施した。現在同地域のアルメニア人比率は9割以上とされるが、それはこのジェノサイドの結果でもあるということは留意すべきである。

他国との関係


①ロシア
 まず第一に、ロシア・プーチン氏の外交の基本方針は「ソ連時代の勢力圏の維持」である。アルメニア・アゼルバイジャン双方とも旧ソ連領なので、ロシアにとっては維持すべき勢力圏ということになる。
 ロシアは勢力圏の維持のための道具として各地の独立問題を利用することが多い。旧ソ連地域にはナゴルノ・カラバフ地域のようにソ連崩壊後も独立できなかった地域がいくつかある。ロシアはそういう地域を支援している。
 ロシア側にとってのメリットは、「独立側VS『本国』」という対立軸を独立側を支援することで「ロシアVS『本国』」に転換することができ、『本国』に対して「紛争を止めてあげるからこっちの要求を呑め」と圧力をかけることができることである。ナゴルノ・カラバフ紛争においては、1994年の停戦時にアゼルバイジャンに対しCIS及びCIS集団安全保障条約への加盟、ロシア連邦軍基地の設置、アゼルバイジャンの石油契約へのロシアの参加の承認を要求しており、アゼルバイジャンはロシア連邦軍基地の設置以外は受け入れている。そして要求を呑んだとしても独立問題が解決されるわけではないのでロシア側には介入して要求を突きつけるという選択肢が残り続ける。
 この関係のためロシアはアルメニア側を支援しており、アルメニア側もそれを受け入れている。だが完全な蜜月というよりも、国内に資源や産業が存在せず国境線の大半を接する国(アゼルバイジャン及びトルコ)から経済封鎖を受けているアルメニアにとって、頼ることのできる国がロシアくらいしかいないと言った方が近いのかもしれない。
 そして、今回の紛争についてニュースを追っている方々はお気づきと思うが、ロシアはアルメニア側を支援しているにも関わらず積極的に支援しようという姿勢を見せてはいない。
 アルメニアとロシアはCIS集団安全保障条約の加盟国である。「集団安全保障条約」の名の通り、加盟国が攻撃された場合、他の加盟国も自国への攻撃と同様に対処することをうたっている条約である。だが、NATOや日米同盟と異なり、自国へのリスクが大きければ助けないという選択肢を取ることも普通にある。
 ロシアにとってアゼルバイジャンは決して無視できない存在である。確かにロシア側の介入に対しアゼルバイジャンは反発の姿勢も見せており、「ロシア被害者の会」である枠組みGUAMの構成国の一員である。だがロシアにとってアゼルバイジャンの石油資源は大きな魅力であり、アゼルバイジャン側も等距離外交を展開しロシアとの決定的な対立は避けているのが現状である。そして何より仮にアゼルバイジャンと決定的に敵対してしまえばアゼルバイジャンが欧米やトルコと接近することも多いにあり得る。これはロシアの外交の最大方針「旧ソ連地域の勢力圏維持」に反する。
 つまりはロシアとしてもできればアゼルバイジャンとは戦いたくはない。おそらくロシアが介入せざるを得ないラインは「アルメニア本国へのアゼルバイジャンの侵攻」であろう(ロシア軍の基地があるため)。アゼルバイジャン側もそれは認識しており、アルメニア本国には立ち入らない一方で、ナゴルノ・カラバフ地域においては最新鋭兵器も投入しての大規模侵攻を展開しているという現状が生まれている。

②トルコ

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アルメニアとトルコとの間には、領土問題と歴史認識問題という二つの対立が存在する。
 アララト山という山がある。かのノアの箱舟の舞台であり、アルメニア人の象徴ともされる山である。日本にとっての富士山に相当する山なのだが、この山は現在アルメニアにはない。
 アララト山は現在トルコ領となっている。ロシア革命時の独立運動の際、アララト山周辺でもアルメニア人による独立運動が起こったのだが、トルコ・ソ連赤軍双方の介入によってこの夢は潰えている。その後もアルメニア人の特に民族主義者にとってはアララト山は「奪還」すべき領土であり、トルコ側もアルメニアの動きを警戒し続けている。アララト山はアルメニアの国章にも描かれているのだが、トルコが「自国にないものを国章にするのはいかがなものか」と発言し、これに対してアルメニアが「トルコの国旗には月と星が描かれているが、月や星がトルコ領だったことは無いので国旗から外すべきである」と反論したこともあるらしい。
 そしてアルメニアとトルコとの関係に暗い影を落としているのが、19世紀末から20世紀初頭にかけて行われたとされる、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺問題である。
 特に問題になっているのが1915年に行われたとされる虐殺である。当時オスマン帝国は第一次世界大戦に参戦、ロシアと交戦していたのだが、その最前線となっていたアナトリア半島(今のトルコのこと)東部のアルメニア人をシリアに強制移住させ、移住先で虐殺が行われたとされている。その前後に行われていたものも含め、オスマン帝国において虐殺されたアルメニア人は100万人から150万人にも上るとされている。
 だが、トルコは現在においても「強制移住は事実だが、それは戦時中だったことによる指揮系統の混乱のためで国としての責任はない。また、移住先での虐殺は無かった」という立場を崩していない。
 アルメニアとトルコはこのように犬猿の仲である。一方でアルメニアという共通の敵の存在、民族が近いとされていることからアゼルバイジャンとトルコはかなり友好的な関係である。紛争激化以前からトルコによるアゼルバイジャンへの兵器の販売、合同軍事演習といった交流があり、今年の紛争以降はトルコは軍事顧問やシリア人傭兵をアゼルバイジャンに派遣している。

③イスラエル
 アゼルバイジャンの主要宗教はイスラム教である。イスラム教国家の大半と敵対するイスラエルにとってアゼルバイジャンは一見許しがたい国家のように思えるが、どっこい両国の関係は極めて良好である。アゼルバイジャンはイスラエルに資源を輸出しており、イスラエルから兵器を輸入している。今回の紛争でもアゼルバイジャンが保有するイスラエル製ドローンが大きく報道された。
 友好関係の理由はおそらく二つある。
 まず、アゼルバイジャンのイスラム教侵攻はかなり世俗的なものである。ラマダン(断食)の期間中もレストランが通常営業している、女性が肌を隠す風習が無い、豚肉を食すなど、他のイスラム教国家ならあり得ないことが行われている。
 そしてより本質的な理由として、主要宗教ではないものの比較的大規模なユダヤ人コミュニティが存在するということが挙げられる。ユダヤ人といえば各地での迫害が有名だが、アゼルバイジャンでは特に迫害はなされず平和に暮らしてきた。このことに対する謝意からイスラエルはアゼルバイジャンと友好的な関係を保っているのだと思われる。

④イラン
 イランはアゼルバイジャンとアルメニア双方と国境を接している国である。
 アゼルバイジャンとは、イラン北部のアゼルバイジャン人が分離独立しアゼルバイジャン側に合流するのではないかという懸念や、カスピ海の資源の分配をめぐる問題を抱えている。しかし、イランの政情が安定していることからアゼルバイジャン人の分離独立は「そういう可能性もある」程度で、また、ペルシャ湾の資源の存在からカスピ海の資源はイランにとって死活問題というほどではないと、決定的な対立要因にはならず、「ちょっとピリピリしているところもある」くらいの関係にとどまっている。
 ただし今年の紛争激化以降は、アゼルバイジャンの動きを警戒するそぶりを見せている。
 まず前述のとおりイスラエルとアゼルバイジャンの関係が友好的なので、両国が手を組んで対イラン包囲網を形成する可能性がゼロではない。今年8月以降イスラエルはアラブ諸国との国境正常化を進めており、「イスラエルがアラブ諸国と手を組むことはあり得ない」という前提が崩れつつあることも懸念材料となっている。
 そしてトルコはアゼルバイジャンにシリア人傭兵を派遣しているのだが、彼らの宗派はスンニ派であり、シーア派国家であるイランにとって、隣国にスンニ派兵士が多数いるという状況が気持ちのいいものではないということも警戒の理由となっている。
 アルメニア側の主要宗教がキリスト教であることもあり、かつてイランとアルメニアの関係は悪かった。しかし少しでも近場の味方が欲しいアルメニア側が必死に関係改善を行ったこともあり、現在では友好的な関係となっている。アルメニアにとってイランは陸路での資源輸入が可能な非常に貴重な国である。ただし、アルメニアに極力自立してほしくないという理由からか、アルメニアによるイランからの資源輸入に関しては、ロシアが妨害を加えてもいる。

⑤石油パイプラインと欧米

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アゼルバイジャンの石油・天然ガス資源は世界中の石油会社にとって大きな魅力である。ソ連崩壊によってアゼルバイジャンの石油市場は開放され、欧米の石油会社がこぞって開発に参入した。当初アゼルバイジャンの外交方針がかなり反露的だったためロシアの参入は遅れたが、前述のようにナゴルノ・カラバフ紛争停戦の際に要求を飲ませることによって、1994年以降ロシアの石油会社も開発に参入するようになった。
 さて、石油というのは掘り出して精製しただけではただの液体であり、お金にするには然るべき場所に輸送して売らねばならない。問題なのがアゼルバイジャンが内陸国であるということで、タンカーにアゼルバイジャン産の石油を積み込むには他国の沿岸まで石油を輸送する必要がある。
 ソ連崩壊時点で、アゼルバイジャンから沿岸部への石油輸送ルートとして、バクー=ノボロシースク間パイプライン(北ルート)と、バクー・スプサ間パイプライン(西ルート)の2本が存在していた。だが、パイプが細く、欧米企業進出に伴う輸送量増加に対応することができない、出口が黒海であり、ここから石油を輸送しようとするとボスポラス海峡(黒海から地中海に通じる唯一の海峡。長さ約30km、一番狭い場所の幅約700m)をたくさんのタンカーが通ることになり危ないという問題があった。つまり、新しくパイプラインを建設する必要が生じたのである。
 パイプラインは自国内にあると、エネルギー安全保障が安泰となる、使用料の徴収で儲かる、国際的な発言力が増加する、とさまざまなメリットがある。周辺国は自国にパイプを引きたがり、パイプの通らない地域の国々は、「敵対国にパイプが通らないようにする」「安定して石油を供給することのできるルートを選ぶ」といった外交駆け引きが発生する。
 「安定した石油供給」というだけならバクーから南にパイプを引きペルシャ湾につなげるのが最善である。距離が短いため敷設費用が安く済み、イランの政情は安定しているため突然パイプが止められるリスクも低い。
 だが欧米、特にアメリカはイランにパイプが通ることを良しとしなかった。結果として新たなパイプラインは、バクー=トビリシ(グルジア)=ジェイハン(トルコの地中海に面した都市)というBTCルートとなった。(直接的な紛争地域は避けているとはいえ)紛争が多いコーカサス地方を横断することになる、長いうえに山脈を掘る必要があるので敷設にお金がかかる、周辺が地震多発地帯と問題も多いが、アメリカが敵視するイランとロシアを通らないパイプラインということで良しとされた。

⑥アメリカ
 資源問題以外では、ロシアとの勢力圏争い、自国内のアルメニア人コミュニティとの関係から同地に介入している。
 ソ連時代は内政不干渉の原則があったので、アメリカといえどコーカサス地方への介入は許されなかった。だが、ソ連崩壊で各国が独立したため介入することが可能となり、さらに域内にはアゼルバイジャンやジョージアといったロシアに恨みがある国もあり、うまく支援してやれば「西側」に寝返って、ロシアに対し政治的・経済的に優位に立つことができるのではないかという期待もあった。さらにイランに隣接するという立地から、9.11以降は「テロとの戦い」における前線基地として有用であるとの地政学的価値が発生した。
 しかし、いくらロシアに恨みがあるとは言え、ロシアと隣接する南コーカサス地方の国々にとってロシアはおいそれと敵対できる存在ではなく、「西側」に組み込む動きがうまくいっているのかといえば微妙なところである。少なくともアゼルバイジャンは等距離外交を実施しており、アルメニアはロシアと関係が深いため、この両国が近い将来「西側」につく可能性は低いだろう。
 冒頭のあたりでアルメニア人ディアスポラについて少し触れたが、アメリカはアルメニア人コミュニティが多い国である。アルメニア人コミュニティによるロビー活動の結果、1992年に「自由支援法・セクション907」という法律が成立。この法律に基づきアメリカがアゼルバイジャンに対し人道支援以外の支援を一切行わないという状態が長らく続いた。しかし、9.11以降、「テロとの戦い」においてアゼルバイジャンを味方につける必要があるとして1年間の「時限的無効」措置がとられ、この措置が毎年延長されているため、現在ではアゼルバイジャンに対してもアメリカは経済援助を行っている。それでもアルメニア>アゼルバイジャンであり、今でもアルメニアが受け取る対外援助の4~5割がアメリカからのものである。

⑦EU
 資源問題や勢力圏を「西側」に変えることに関心を抱いている、自国内にアルメニア人コミュニティを抱える(特にフランス)といった点はアメリカと共通している。
 アメリカとEUとの差異はコーカサス地方との物理的距離の違い、EUがヨーロッパという「地域」の枠組みであるという点から生じている。つまりはヨーロッパに隣接するコーカサス地方という地域を、ヨーロッパの枠組みに組み込んでいくというスタンスをとっている。
 洒落にならないほど文章が長くなっており、しかもEUのアプローチがかなり多彩であるため詳細は省くが、代表的なものとして
・ENP(欧州近隣諸国政策、欧州と欧州と隣接する地域との関係強化、インフラ整備、移民・対テロでの協力を目的としたプロジェクト)
・OSCE(欧州安全保障協力機構、活動内容は読んで字のごとく。ナゴルノ・カラバフ紛争における公式の仲介役となっている組織で、特にロシア・アメリカ・フランスが共同議長を務める「ミンスク・グループ」が直接的な交渉を行う)
・COE(欧州評議会、人権・民主主義・法の支配という共通の価値の実現のために協力することを目的とした国際機関、価値を共有するすべてのヨーロッパと近隣諸国に加盟が許されている(加盟国が必ず民主主義国家とは言っていない))
といった枠組みにコーカサス地方の各国が加盟している。
 なお、EUそのものにコーカサス地方を組み込むということに関してはEU側は否定的である。コーカサス地方どころか東欧まで拡大した段階で種々の問題が噴出してしまっているので拡大に否定的なのもやむなしといったところか。

参考資料


小泉悠著「プーチンの国家戦略 岐路に立つ「強国」ロシア」2016年 東京堂出版
中島偉晴「コーカサスと黒海の資源・民族・紛争」2014年 明石書店
廣瀬陽子「コーカサス 国際関係の十字路」2008年 集英社新書
六鹿茂夫「黒海地域の国際関係」2017年 名古屋大学出版会


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