支配したければ犠牲を強いろ


「支配したければ犠牲を強いろ」
これは昔から言い古された言葉ですここにはこの世の真理が詰まっていると思います。
一瞬、それって逆じゃないの?
と感じるかもしれませんがあらゆる組織が必ず犠牲を強いることで組織を束ねています。

緊急事態宣言が延長されここ一年感染症対策が社会全体で叫ばれている中、
「こんなに我慢してるのに」
という意識が少しでもある人は注意が必要です。
どんな宗教でも国家体制でも、最もコントロールしやすい人間というのは犠牲を強いられているという感情を持つ人間です。
そして当然ではありますが、どんなに小さい宗教にしろ国家にしろそれは意図的に与えているものになります。

非常に有名な宗教にまつわるお話があります。
ある双子の母親が教祖様に「苦しくて辛くてどうしていいか分かりません」と泣きつきました。
すると教祖様はこう言いました。
「双子のうちの一人を殺しなさい。」
母親は泣きながら一人を殺しましたが、そのあとその母親はどうなったか?
その宗教を盲信したんです。

こんな話はあらゆる宗教の大元といっていい程にそれぞれの宗教に残る逸話として語り継がれています。
旧約聖書に至ってはそんな話が多過ぎて胸糞が悪くなってきます(笑)
が、それこをがこの世を形作っている基礎の基礎であったりします。

実際本当は何も強いられてもいないのに、
「何かをさせられている」
という意識を持ちやすい人はその矛先が自動的に他人に向かっていきます。
「こんなに我慢しているのに・・・」の次にやってくる言葉は「あの人は何もやっていない」という意識です。
そして自分が強いられていることを他人にも強要し始めます。
ここまでたどり着いてしまった人はもう完全に支配者の思うつぼ、ということになります。
どれだけ体制側に批判的なことを言ったとしても常にその支配者が準備したお池の中で発想することしかできなくなっているからです。

なぜこんな話をしているかというと・・・相場と全く一緒だからです。
自分自身のポジションに対しても全く一緒です。
どのポジションを犠牲に使い、どのポジションを活かすのか、というメタ的な視点で己のポジションを眺めていられる人は決してマーケットに何かを「強いられた」とは思いません。
が、多くの勝てない投資家は「~をさせられた」という表現をします。
この時点でその人自身が最初から勝者のポジショニングではない、ということになります。

犠牲を強いられる立場になるのか。犠牲を強いる立場になるのか。
それは社会構造でも一緒だろうと思います。
自分自身が他人に対して「犠牲を強いることが出来ることは何か」を考える訓練というのは必ず必要になってきます。
こんなことは倫理的に悪いように捉えられているので当然学校では教えてくれません。
それをいかに綺麗な包装紙に包んでお届けすることが出来るか、が非常に重要なことになってきます。
こういうことが生まれながらに自然と出来てしまう人種というのが確かにこの世には存在しますからその違いは歴然とした差となって表れてきます。

自分自身の
「我慢している」「やりたくもないことをやっている」
という感情が己以上の大きな何かのせいで生み出されていると感じている人は是非
「自分が誰にどんな犠牲を強いることが出来るか」を考えてみると面白いと思います。
反対側から見てみたら
「実は何一つ強いられていなかった」
という現実が浮かび上がってくると思います。

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