聞く一つの救いだが、念仏と諸善は大切

前回書いた記事で書ききれなかったことを書こうと思います。かなり長い記事なのですが、下記の記事を見ていただけると幸いです。

この記事のでは浄土真宗で教えられる「信心と念仏の関係」を書いたつもりなのですが、では「浄土真宗の救いと念仏の関係」については書いていませんでした。この事を指摘されたので、この記事で書きたいと思います。


念仏で救われるのではない。でも念仏は大事。

浄土真宗によくある誤解に「念仏称えたら助かる」というものがあります。もっと酷いものには「念仏称えで助かると言う単純な教えだから広まった」なんてものもあります。これらは大きな間違いです。

前回書いた内容の反復ですが、浄土真宗の教えは「聞く一つで助かる」というものです。聞くとは「南無阿弥陀の名号を受け取る」事です。前回の例えで言えば病人が特効薬を飲む事です。それによって病が全快したことを「信心」といいます。そして病が治ったことで医者に対して出てくるらお礼が念仏です。

この関係からも念仏でたすかるというのが間違いだとわかります。

しかし、この事は一つの誤解を生ずることが多いです。れは「念仏で救われるのでないなら救われるまで念仏はいらない」という誤解です。また、「聞く一つで助かる、念仏はお礼」こう聞きますと、善が出てきませんから、「善行もしなくていいですね」という誤解まで出てきます。

これはとても間違いやすいところです。

念仏や私たちがやる善い行いで救われるわけではないのに、なぜ「救われるまでの念仏や善は不要」と思うのが間違いなのでしょうか?それを解説します。

善や念仏をする心

念仏と言いますと「南無阿弥陀仏」と口で称えることです。そして、前回の記事でも明言しましたが「念仏称えたら救われる」というのは間違いです。

その理由としてわかりやすいものを一つあげますと、仏教では心を大事にするということです。体でやっていることがどれだけ善いことでも、心で悪いことを思っている場合、仏教ではその善を「雑毒の善(毒の混じった善)」として嫌われます。最も善には違いないのでやらないよりはマシですが、仏教で教える本当の善ではありません。

それと同じく、念仏も一様に「南無阿弥陀仏」と称えていても称える心は様々です。

何か間違った「御利益」を信じて称えいる人もいれば、「よくわからないけど何か良いことなんだろう」と思って唱える人もいます。「魔除の意味」で称える人もいれば、役者が台本に書いてあるから称えるというケースもあるでしょう。

もちろん、これらは本来の念仏ではありません。

三通りの念仏

仏教では、三通りの念仏があると教えられています。平たい文章で書くと、以下の三つです。

・諸善よりも優れた善だと思って称える念仏
・諸善よりずば抜けて優れた善だと思って称える念仏
・弥陀に救われて称えるお礼の念仏

前回の記事で書いた「お礼の念仏」とは三つ目のことです。そしてお礼の念仏は「救われた後称える念仏」のことです。

救われる前に称える念仏は上二つの念仏です。「殊に優れた善だ」と信じて称える念仏のことです。

念仏は呪文のように思っている人も多いです。ひどいものには「私は阿弥陀仏を信じますという宣言だ」なんてものまで見かけたことがあります。これらは間違い以前に論外です。

念仏は主に、浄土三部経と言われる「大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経」という三つのお経に説かれています。以前から書いてますが、お経は呪文とかではなく、「釈迦の教えたことを文字に起こしたもの」です。ですからお経の内容は釈迦が生きた人間に教えたことそのものです。

そのお経の中で、念仏を称えることはいいことだ、と勧めているのです。「救われる前の念仏はいらないけど、救われた後の念仏は大事」なんて言い方は断じてされません。

ですがここでわからなくなるのは「念仏で助かるわけではないのに、なぜ救われる前も念仏を勧めるのかということです。これは念仏は救われる「原因」ではなく「方便」だということです。

諸善と念仏は方便

前回の記事で書きましたが、全ての人は「無明業障の病」で自覚なく苦しんでいると書きました。平たく言いますと「死んだらどうなるかわからない心」、「死んでいくさきが暗い心」のことです。なぜ、これで苦しむのかは前回の記事を読んでください。

この病を完治させると誓ったのが阿弥陀仏です。阿弥陀仏はこのすべての人の病を治し、本当の幸福にするという本願、約束をたて、無明業障の病を完治させる薬、名号を完成させました。

ですが、全ての人は「無明業障の病」と聞いてもピンともカンもきません。「死んでいく先が暗い心」と平たく言っても「そんなの当たり前じゃないか」とつっぱね、「死後が暗い心」というと、私の死後は明るいですよと言って遺産相続や事業の引き継ぎ、遺族への手紙や葬儀、納骨の計画を提示します。死んでいく先と、自分が死んだとの手続きを勘違いしてしまう始末。これではイロハのイにかすってすらいません。

ですから、弥陀はこんな全ての人を救いまで導くための方便をたてました。方便とはウソのことではなく、「真実に近づけ、体得させるのに絶対必要なもの」を言います。語源はサンスクリット語の「ウパーヤ」近づけるという意味の言葉です。

その方便として誓ったのが「諸善」と「念仏」です。

その方便を私たちに教えたのが、阿弥陀仏の弟子である釈迦です。この阿弥陀仏と釈迦の関係も前回の記事を参照ください。

釈迦は、仏教のイロハのイである「因果の道理」を教えました。この因果の道理は平たく言いますと「善い行いは善い結果、悪い行いは悪い結果、自分の行いは自分の運命を生み出す」というものです。万人が知りたい自分の未来の結果は、自分の行いが生み出していると明らかにしました。

これを聞いたらみんな「当たり前」とつっぱねますが、その実、いい結果がくると「自分の行いの良さ」と自惚れ、悪い結果がくると「アイツも悪い、こんな状況も改善すべき」と自分以外を指摘し続ける始末。こんなの「わかった」内にかすりもしません。

それでも釈迦は延々と因果の道理を説き続けました。この結果、釈迦の教えを文字に起こしたお経は現存するだけで7000冊を超えます。なぜ、ここまで説いたかといいますと、根気強く教え続けたら、いつかは実践につながるからです。

実践してみると、形はできても本当の意味で善ができない自分が知らされます。形は善ですからいいことは返ってきますが、その実自分の心は全く変わらない、そんな葛藤が起こります。そこからしか、自分の後生とか本当の幸福とか、そういうことが気にかからないんです。

そんな、心からの善ができない自分を知らされた人がたどり着くのが「念仏」です。念仏は「素晴らしい善だ」とお経で説かれてますから、なんとか念仏で心からの善をして助かろうと称えるのが、先の「救われる前の念仏」です。

ところが、念仏を真剣に称えようとすると、余計に真剣に慣れない自分が知らされます。事実として「誠の心で念仏を称えたら助かる」という言葉はお経や聖教の中に出てきます。ですが、実際人間にその心はありません。それが諸善も真剣に取り組み落第、念仏も真剣に称えようとした人に知らされます。

そうして最後の最後に転入させられるのが「阿弥陀仏の本願の救い」です。その本願の救われた人が、諸善も念仏も方便だったと知らされ、救ってくれた阿弥陀仏へのお礼、報謝で称えずにおれないのが「お礼の念仏」、御恩返しに励ますに折れないのが「諸善」です。

救われる前の諸善と念仏とはこの方便なのです。諸善や念仏で本当に救われることはあり得ませんが、諸善や念仏によって本当の救いに近づけるのです。諸善や念仏なしに本当の救いに会える「時」は来ません。

「知ったわかった」は知らない内

「諸善と念仏は方便」という言葉自体は単純ですが、こう言葉だけ覚えても意味はありません。また、この文章だけでわかったとしても、それは観念の遊びです。

真剣に諸善や念仏を実践して、初めてハッキリ知らされる境地があります。

浄土真宗の蓮如上人は「仏教は聴聞に極まる」と教えます。聞く一つということです。何を聞くのかと言いますと、同じく浄土真宗の親鸞聖人は「仏願の生起、本末を疑心有る事無しとなるまで聞け」と教えます。

生起は「どんな人のために阿弥陀仏の本願が建てられたか」
本は「その人たちをどう救うと約束されているか」
末は「そのために阿弥陀仏は何をしたか」

ということです。これらのことを真剣に聞いて、その通りに実践していくのが本当の仏教です。そして実践していった先に、生きている時に「救われた」という一念が来ます。救われる前の念仏が救われた後の念仏に変わる瞬間、水際が、生きてる時に必ずきます。仏教が本当に教えたいのはこの事です。

自分自身、正しく書けているか不安なことが茶飯事です。ですが、昨今の仏教への間違いや偏見はなんとか無くなって欲しいと願って止みません。仏教に対して葬式や変な魔除やお祓いなどのイメージがもたれていますが、本来の仏教とどんなものか、ほんの僅かでも感じていただけたら幸いに思います。

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