Sin

趣味で仏教勉強してる人です

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最近の記事

都合のいい天国を否定する仏教

仏教では死後のことが教えられているのですが、世間でそのことが語れることは極めて少ないです。相続だの仕事の引き継ぎのことを考える人がいますが、そういうことではなく、「自分が死んでどこへ行くのか?」ということです。 ごくたまに自分が死んでどうなりたいかを語る人もいるのですが、その内容はおおよそこのようなものです。 「自分は死んだら天国に行って、これまで会ってきた人たちと再開してあなたと出会えてよかったと喜び合いたい」というものです。 死後の世界がこのようなものだったら確かに

    • 生きがいがなくても生きる目的はある

      生きる目的と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。「人それぞれ生きがいや目的を見つければいい」というのがよくある意見ではないでしょうか。 この考えは実は「生きる目標」についてはその通りなのですが、「生きる目的」が人それぞれと言ってしまうととんでもない論理が成り立ってしまい、大変なことになってしまいます。 また、仏教でも「生きる目的は万人共通で唯一のもの」と教えます。なぜ人それぞれではなく共通のものなのでしょうか。それを解説します。 その生きがい、いつまで続いた? 世間で「

      • 全てが「そらごと、たわごと」の世の中で生きる理由

        「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、万の事みなもって、そらごと、たわごと、真実あることなきに・・・」 古典で有名な歎異抄の言葉です。歎異抄は浄土真宗の親鸞聖人が言った内容を弟子が文章でまとめたものです。ですから口伝ではありますが、親鸞聖人の言葉という事です。 その言葉の中の一つが、この一節です。古典の言葉と聞くと、現代には関係のないもののように思えますが、この言葉はいつの時代であっても大切なことが含まれています。ですから、現代でも重要な言葉です。 今回はこの言葉を解説し

        • 生きづらさの枝葉と根源

          昨今「生きづらさ」という言葉が多く聞かれます。種々の社会問題の原因の一つとしても知られていますし、現に生きづらさを感じている人は多いようです。 この生きづらさの原因は多く語られます。ハラスメントや虐待、DV、いじめなどの人間関係によるもの。生活費や物価高、雇用や収入などの経済によるもの。疾患、障害、介護やそれに伴う通院や医療費といった健康に関するもの。ほかにも社会的な地位名誉によるものもあるでしょうし、出世競争などの社会的な競争も生きづらさを生むことがあります。 仏教の観

        都合のいい天国を否定する仏教

          生きづらさを解決する仏教

          いつの時代も仏教と聞くと葬式だったり法事だったりと、なにか普段の生活とは関係のないもののように思われているようです。ひどい場合スピ系と混同されることもあるみたいです。 仏教というのは本来、私たちが生きていくうえでとても大切なものであり、無関係ではありません。本来無関係なものなら時代を超えて仏教の教えが語り継がれたりしませんし、合理主義な性格の事業家や科学者が仏教の教えに感動することも少なくありません。 では、なぜ仏教が私たちの生活にとって大切なのでしょうか。それは仏教が「

          生きづらさを解決する仏教

          悪い人が悪い顔してるのは漫画の世界だけ 〜仏教が教える悪人〜

          最近漫画アプリで昔の漫画読むのが好きなのですが、漫画って時代ごとの傾向があって面白いものです。 昭和から平成初期の作品って悪役が露骨に悪い顔してることが多いんです(もちろん全ての作品がそうではありません)。登場した瞬間に「このひとは悪役だ」とわかってしまうことがよくあります。そんな演出したらチープになってつまらなくなりそうですが、そんな演出だからこそ魅力を出しているから面白いものです。 もちろんこれは漫画という創作の中の話なので、現実は違います。 現実世界でも悪人が目の

          悪い人が悪い顔してるのは漫画の世界だけ 〜仏教が教える悪人〜

          死を超えて ~親鸞聖人の遺言~

          普段仏教の記事を書いてますが、タイトルの「死を超えて」というのは仏教の言葉ではなく、普段私がやっているゲームに出てくる進捗の名前です。わかる人は多分わかるかと思いますが、大事なのはそこではなく「死を超える」という所です。 「死を超える」と聞くとどんなことをイメージするでしょうか。もちろんですが、スピリチュアルみたいな内容ではありません。世間的に見ますとおおよそ以下があるように思えます。 ・九死に一生を得た時 ・臨死体験をしたとき ・死んで生き返ったとき 多分このような体

          死を超えて ~親鸞聖人の遺言~

          聞く一つの救いだが、念仏と諸善は大切

          前回書いた記事で書ききれなかったことを書こうと思います。かなり長い記事なのですが、下記の記事を見ていただけると幸いです。 この記事のでは浄土真宗で教えられる「信心と念仏の関係」を書いたつもりなのですが、では「浄土真宗の救いと念仏の関係」については書いていませんでした。この事を指摘されたので、この記事で書きたいと思います。 念仏で救われるのではない。でも念仏は大事。 浄土真宗によくある誤解に「念仏称えたら助かる」というものがあります。もっと酷いものには「念仏称えで助かると

          聞く一つの救いだが、念仏と諸善は大切

          信心と念仏は矛盾しない ~本当の救いを矛盾なく明らかにしている浄土真宗~

          今回ちょっと宗教学的な内容になります。専門用語が多く、それらの用語一つ一つを解説することができず、わかりにくくなるかもしれません。なのでもう「スキ」も何の反応も帰ってこないこと前提で書きます。 内容はタイトルの通り信心と念仏の関係についてです。 なぜこのタイトルについて書こうと思ったかと言いますと、最近浄土真宗の僧侶の発言でこんな悲しいものを見かけました。 「信心で救われるか、念仏で救われるか、論ずるのは矛盾を生む」というものです。これは明らかすぎるまちがいです。 何

          信心と念仏は矛盾しない ~本当の救いを矛盾なく明らかにしている浄土真宗~

          生きる手段を失うより怖い事 ~本当の一大事を教える仏教~

          「生きる手段」と聞くとどんな事を思い浮かべるでしょうか。検索してみると「食料を調達する方法」だったり「困難に立ち向かう心得」だったりと色々出てきますが、昨今の言葉で言えば「仕事」とか「生活」というような言葉に収まるように思えます。 生きる上で「生活」と「仕事」はどちらも大切です。どちらかだけで生きていく事はできません。ですから世間はこれら「生きる手段」を失わないように種々に創意工夫します。 保険に入ったり、収入源を増やしたり、仕事と生活のバランスを考えたりするのは、それら

          生きる手段を失うより怖い事 ~本当の一大事を教える仏教~

          仏教はこれ一つが肝要 〜一念という言葉の意味〜

          今回は一念という言葉を解説します。この言葉は仏教の教えの中で最も大事な言葉です。 この言葉は仏教の肝要と言われる言葉です。肝要という言葉は世間でも使いますが、仏教では「これ一つ大切なこと」という事です。「要(かなめ)」というと、いくつかあります。大切なことというのはいくつかあげられるものです。ですが、要に肝とつけて「肝要」というと、たった一つ、これ以外ない大切なことという事です。あれもこれも肝要ということは、仏教ではありません。 仏教でこれ一つ大切ですから、逆に言いますと

          仏教はこれ一つが肝要 〜一念という言葉の意味〜

          強い心とは? ~折れない心、折れる心、折る事ができない心~

          「鋼のハート」とか「豆腐メンタル」とか心の強い弱いを表現する言葉は多々あります。強い心を持つことはいい事ですし、そうなれず心が弱い、または繊細な人ならそれなりのフォローや対応が必要ですから、こういう言葉は当然必要な言葉です。 ですが、強い心とは実際どんな心でしょうか。どれだけ罵倒されてもおれない心でしょうか。初志貫徹できる心でしょうか。どんな逆境でも笑顔でいられる心でしょうか。強い心を持つことはいい事とされますが、その心事態は結構漠然としています。 この心は仏教でも大切な

          強い心とは? ~折れない心、折れる心、折る事ができない心~

          なぜモルヒネをうち続けたのか 〜映画を見ての独り言〜

          仏教の教えを学ぶと、世間の映画や小説などが違って見えてくることがあります。私も仏教学ぶ前後で見え方が変わったなと思うことが多々あります。 昔見た映画や小説、音楽が、仏教の教えを学んだ後でこう感じるようになった、という経験です。仏教の観点は普段の生活にも新たな視点を与えてくれるので、学びや知識的な面以外にも面白みがあります。 なので、今回は昔見た映画のワンシーンが仏教の教えを通してみるとどうなるか、書いてみたいと思います。ただ、映画の内容に触れますので、多少のネタバレ含むこ

          なぜモルヒネをうち続けたのか 〜映画を見ての独り言〜

          「欲」を満たさない幸せ ~仏教が本当に教えたい幸せ〜

          仏教で「本当の幸福」を教えているという内容をこのnoteでかいているのですが、「本当の幸福」と聞くと世間でよく聞く「いい人に出会う」「おいしいものを食べる」「いい景色を見る」といった幸せの延長線上を想像したり「仕事、生活や精神面でのバランスの取れた生活」みたいなものを想像する人が殆どのようです。 仏教ではこれらの幸せは必要なものではあるけれど、本当の幸福ではないと教えます。つまり、仏教が教える本当の幸福とは、先述のような幸せではないということです。 では、仏教で教える本当

          「欲」を満たさない幸せ ~仏教が本当に教えたい幸せ〜

          それで本当に人生満足か? 〜思い出で未来は明るくならない〜

          よく「死ぬまでに何をしたいか」ですとか、「どんな死に方をしたいか」といった質問を見かけます。自身の人生どうしたいか、という質問の派生のように思えます。この質問にはいろんな回答が寄せられますが、答えは二種類に大別できるように思えます。 一つは、「自分のやりたいことをする」 二つは、「後世に何かを残す」 死ぬまでに自分のやりたいことをやり抜くといった答えは一番よく見かけます。それと同じくらいに見かけるのが「自分はこんなふうに生きたんだ」と誇れるようなものです。 前者の場合、

          それで本当に人生満足か? 〜思い出で未来は明るくならない〜

          「葬儀」より「生きる意味を教える法話」 ~法話より葬儀を重んじる世間~

          最近仏教の勉強してるっていうと「教えてほしい」と言ってくる人だ時たまいます。いや、それはありがたいことなんですが、その内容が「葬儀での礼式を教えてほしい」「宗派ごとに葬儀でやるべきことを教えてほしい」といった感じです。 すこし悲しくなります。葬儀の場で失礼のないようにするのは大切なのですが、それが第一だと大きな見落としをしています。 最近ではアメリカ人のほうが仏教を熱心に学んでます。「仏教学ぶならアメリカへ」という時代も近いかもしれません。 こういう寂しいことがあったの

          「葬儀」より「生きる意味を教える法話」 ~法話より葬儀を重んじる世間~