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なんで箱の解体作業は楽しいのか。

使い終わったティッシュの箱。食べ終わったお菓子の箱。飲み終わった牛乳パック。荷物を取り出し終わった宅配便のダンボール。

あの箱たちに隙間を見つけて指を差し込み、長方体を長方形にする瞬間が、私は結構好きだと思う。

あの感覚はなんなんだろう。

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少し、昔を振り返ってみる。

我が家は、それなりに分別を徹底している家だったと思う。

ティッシュを使い終えれば、箱の側面にある半円の切り込みに指を差し込んで穴をあけ、そこから側面を上下左右に引っ張って広げて箱から筒形にし、斜めに倒してぺっちゃんこにする。そして最後に取り出し口のビニールをはぎ取って分別して捨てていた。

紙とビニールを分けることも箱を潰して捨てることも当たり前のことだと思って育ったけれど、上京して一人暮らしを始めた時、紙とビニールは分別しなくても良いことに戸惑ったし、友人とルームシェアをした時に牛乳パックを箱の状態のまま捨てる文化に開いた口が塞がらなかった。

まあ、住む地域や生まれ育った家庭で分別の基準やごみの捨て方が違うことは置いておこう。

ここまで書いて、ある2つのことに気づいた。

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1つは、箱の解体作業が自分の役割だったということ。

私には兄弟姉妹はおらず、両親と父方の祖父母との5人暮らしで最年少として育ったので、誰にでもできる雑用を任されることが多かった。

ティッシュの最後の1枚を使ったのが誰であれ、足りなくなったら納戸に新しいティッシュを取りに行くのも私だったし、空箱を片付けるのも私だった。ついでに父のビールを二階の冷蔵庫まで取りに行くのも私の役割だった。

もちろん「面倒くさい」「なんで私が…」と思うこともあっただろうが、母の言葉が絶対的権力を持っている家庭だったので、逆らえた試しはない。(こう言うと母が最悪な人っぽいけどちゃんと愛情も注いでくれる母であることは補足しておきたい)

そして、嫌々でもその役割を果たすことで得ていたものがあった。

それは、誰かに頼られる=必要とされるという状況と、一仕事終えた後の「ありがとう」の言葉。

そう、これをする自分が「愛される」と心の奥底で分かってしまっていたのかもしれない。

だから、自分の役割の1つだった箱の解体作業が今でも好きなのではないだろうか。

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そして、もう1つの気づいたことは、ティッシュケースの解体作業の中でもビニールの部分が上手く剥がせないことが嫌いだったということ。

ビニールの部分がないにしても綺麗に解体できない箱は嫌い。つまり、綺麗に解体できるということに意味があるのかもしれない。

最近の箱は潰しやすいようにできていたりするけど、ああいうのは大歓迎なので、自力で何とかしたいという考えはあまりなく、自力でも他力でも綺麗になるのが好きなんだろう。

折り紙で折って重ねた先がずれているのは嫌だし、ピンチに吊るして干したタオルの右端がでっぱって左端がくぼんでしまったことによって上手く畳めないのも嫌だし、箸置きの上で箸が微妙にずれているのも許せない。

のと、同じなのかもしれない。

でも、シンメトリーよりはアシンメトリーの方が好きだし、偶数より奇数の方が好きだし、何より素数が好き。という感じで、何もかも整っていてほしい訳でもない?気もする。

うーん、なんなんだろう。あ、でも、そうだな。

あるべき姿になっていくというのは自分の中で大事なことかもしれない。筋が通っているというか。真理で真実であるというか。正解があるのであればその正解に沿っていたいんだと思う。

箱は必ず展開できる。解体できる。であればそれを綺麗に成し遂げたい。

そういう思考なのだ。たぶん。

それがなんでなのかはまた別の記事で紐解いてみよう。

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今回は、箱の解体作業がなんで好きなのかを考えてみて、

1つ目の理由は、箱の解体作業が自分の役割であったこと。
2つ目の理由は、箱の解体作業には正しいゴール(正解)があること。

だと、結論付けてみた。

他にも好きな理由はあるかもしれないけれど、今回は一旦ここまでで。