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「死」— 組み変わる本質
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今日も早朝サーフィンを終え、家でぽけーっとしております。僕は入れる日は朝夕サーフィンをします。朝は地平線の向こう側から昇る朝日を前に、海面に反射するゆらめき輝く光の道に導かれるように沖に向かいパドルをし、夕方は山や海面を鮮やかに彩る夕焼けを眺めながら岸に向かいパドルをして帰ります。
大きく深呼吸をすると、周りの全てがグニャっと溶け込んでしまったような何とも神秘的な気分になります。サーフィンは僕にとって動的な瞑想といえるかもしれません。
さて、今回もスピノザ『エチカ』より興味深い部分を紹介していきたいと思います。スピノザの独創性がキラリと光る「死」の捉え方です。
スピノザは次のように述べています。
人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しない。
いわゆる死、自身が死骸になる死というのは、諸部分の関係が解体して、全くの別物になってしまうということです。ですが、そのような変化(死)は死骸になるという時にだけ起こることではないとスピノザは言っているわけです。
どういうことか?
スピノザは「あるスペインの詩人」のエピソードを紹介しています。
その詩人は病気にかかり、そこから回復はしたものの、自分の過去を忘れてしまって、自分がかつて創作した物語や悲劇を自分の作品だと信じなかったというのです。
スピノザはこの詩人は一度死んだも同然であると考えます。この詩人は精神の諸部分が本格的に変更され、本質が全く違うものに生まれ変わってしまった、それはある種の「死」であるというのです。
この考え方は僕も凄く共感できます。
しかし、ここで注目したいのが、スピノザが「この詩人は死んだのだ」とはっきり述べるのではなく、「死んだと考えてもいいんじゃない?」と問いを開いたままにしていることです。
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話はずれますが、漫画『寄生獣』にこんな場面があります。
主人公が自分の母親と対峙する場面。母親は寄生獣に寄生され外見、声も全く一緒ですが、もう既に中身は化け物になっています。その母親(寄生獣)の腕には、幼い頃の主人公を熱湯から助けた時についてしまった火傷の跡まであります。母親(寄生獣)を殺さなければ自分が殺されてしまいます。主人公は目の前にいる母親はもう既に母親ではない(死んでいる)ことは理解していますが、パニックに陥り適切な判断ができません。そして次の瞬間、主人公は母親(寄生獣)に胸をひとつきされ倒れます。
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スピノザ的にいうならば、主人公はコナトゥス(本質)の変化は理解していたけど、エイドス(形相・外見)的判断を切り捨てることはできなかった。
僕ももし同じ状況ならば、主人公と同じ結果になっていたと思います。
なぜなら人間には「感情」と呼ばれているものがあるからです。
人間はよくも悪くも感情的な生き物です。
この人間の意識にのぼる独特な「感情」というもの、このことを踏まえてスピノザは先のエピソードについての詩人のことを「死んだと考えてもいいのでは?」という柔らかい言い方にとどめたのだと僕は思います。
もう一つスピノザは興味深いことを言っています。
.... 小児について我々は何と言うべきであろうか。成人となった人間は、他人の例で自分のことを推測するのでなかったならば、自分がかつて小児であったことを信じえないであろうほどに小児の本性が自分の本性と異なることを見ているのである。
大人は、自分がかつて子どもであったことを信じることができないほどに、いまの自分の本質(コナトゥス)と子どもの時の本質(コナトゥス)が異なることを知っています。ここでも人は一度生まれ変わっているんだ、つまり一度死んでいるんだと考えられるということです。
僕たちは昔の自分と今の自分を、ひと繋がりの自分であると思っていますが、実はそんな根拠はどこにもありません。
常に僕たちのコナトゥス(本質)は入れ替わっているのです。
これは生物学的にも言えることで、半年、あるいは一年ほどで、僕たちの体は分子レベルですっかり入れ替わっています。
久しぶりに会った知人、友人に僕たちは「いやー、全然変わってないね!」なんて言ったりしますが、変わりまくってるのです。かつてあなたの一部であった原子や分子はもう既にあなたの内部には存在しないのです。
僕たちは生きながら「死」を繰り返しているわけです。
最後に、
僕はひとは変わることができると信じています。
自分を「変える」といういい方ではなく、「殺す」と言った方がいいかもしれません。
変えたいと思っている自分の中のもう一人の自分を「殺す」のです。
これは比喩的な意味に聞こえるかもしれませんが、現実的な意味で僕は言っています。
精神的に、現実的に殺すのです。
とても難しいことでその代償がありますが、
みなさんも是非試してみてください。
己と対峙し 己を殺せ
〈参考テキスト〉
『エチカ』- スピノザ
『生物と無生物のあいだ』- 福岡 伸一
『スピノザ-読む人の肖像』- 國分 功一郎
『はじめてのスピノザ』- 國分 功一郎
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