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東日本大震災~もうすぐ10年~②

大槌(おおつち)への出発、母との再会

3月12日
「地元に行くか?」
その一言に私は即決でした。
妻や子供もいるのに、余震が続いているのに即決してしまいました。
あの時はとにかく早く、実家の家族がどうなってるかを知りたくてそれしか考えれませんでした。
妻とはちゃんと話をして、無事に戻ってくる事を前提に許してもらいました。あの時の妻には感謝してます。強い余震が続く中、妻と2歳の息子を残して、地元に行く事を許してくれて、本当に感謝しかありません。
その後の行動は早かった。最初に連絡をとっていた友達に電話して、一緒に行こうと話をしました。その友達も行こうと言ってくれました。
まずは地元に行こうといったAが車を出し、Aは神奈川に住んでいて私の家から1番遠いので救援物資とガソリンの携帯缶を買って、私の家に来る事。
次に最初に連絡を取り合っていたBは、私と同じ埼玉なので、電車で私の家まで来て、私の家の近くで救援物資を買って準備をすることに。
色々な計画を立てつつ、私は会社の上司にも連絡をして
「家族がどうなったかがまだわかってないです。どうしても地元に帰って家族を探してきたいです。」と伝えた。上司は
「わかった。気を付けて行ってこい」と言ってくれました。
今思うとあの時は、本当に妻、息子、上司、会社には悪いことをしたと思いました。
最悪、ガソリンが無くなり帰れなくなったり、余震の影響で道が途切れたりと色々なリスクがある中、私が大槌町に行くのを許してくれて本当に感謝しかないです。
そして、友達Bと合流して、救援物資を買いました。そして、夕方になって、友達Aが到着し、出発をする事になりました。
妻と息子が心配そうにずっと声を掛けてきたのを私は忘れません。
当時、東北自動車道は使えなかったのと福島原発のことも考え、一般道を使い、埼玉から栃木に行き、栃木から山形、山形から秋田、そして、秋田から岩手の順で進んで行くことにしました。
大体のルートが決まり、途中のガススタで携帯缶にガソリンを入れて、岩手に、大槌町(おおつちちょう)に向かいました。

ちなみに私の地元大槌までは当時、高速を使っても、8時間かかるくらい交通の便が悪い地域でした。まあー岩手は本州で1番大きいので、高速がある内陸の盛岡までは早くても、その先からは一般道しかなかったのでどうしても大槌までは時間がかかります。


基本的に運転はAがしました。マニュアル車だった事もあり、オートマに慣れている私もBもマニュアルの運転は下手だったので。
なので、私とBがガラケーでの情報集め、Aが運転という形で地元に向かいました。
スカイラインはとにかく燃費が悪かったので、ある程度走行したら、ガソリンスタンドを見つけ、直ぐにガソリンを入れました。当時、ガソリンは20Lまでと制限がかかってたりしたのでガソリンスタンドをちょこちょこ見つけてはガソリンを入れました。
なんだかんだで順調に山形まで進み。山形で雪が降ったきました。乗ってる車はノーマルタイヤ。且つ、初めての道だったので、かなりの低速運転で走行しました。
本当、今思うと無謀な人達です。事故やガス欠で遭難してもおかしくない。
山形を乗り越えた後は順調で秋田から岩手の北上に入りました。確か朝8時頃だったはず、ここで再度作戦会議し、まずはガソリンスタンドを探しました。この先からはガソリンを入手出来なくなるはず、そして、通れない道もあるのでどこが通れるかの情報をネットで探しまくりました。
まずは北上でガソリンを入れようとなり、早く大槌に行きたかったですが、ガソリンが無くなれば、帰れなくなるので、急ぐ気持ちを抑えて、ガソリンスタンドを探しました。一箇所は直ぐに見つかり何事もなく、ガソリンを補充。しかし、これだけでは満タンになりませんでした。当時は20Lの制限がかかってたので、仕方なくもう一件探し、今度はかなりの混雑でしたが、ここで補給しないと思い、ガソリンを入れ、いざ、大槌へと向かいました。

ここから先は3人とも驚きと不安の中、道を進んで行きました。道が崩れて片側車線になっていたり岩が落ちていたりといつもの地元に帰る道ではなかった。この時、大槌まで本当にいけるのかが不安になってきました。いつもの道がいつものみちでは無くなり、無残にも崩れてる家もあったり、不安ばかりが募る中、それでも着実に大槌に向かい、続けました!
着実に大槌に近づきながら、無事に大槌の二つ手前の遠野に到着しました。

遠野に着いた私達は、来る途中の道があまりにも現実離れしていたので、今の手持ちでは大槌まで行くことはできないかもしれないと思い、遠野にあるホームセンターによって、使えそうな道具を買うことにしました。

ホームセンターの駐車場に車を止めて、3人でホームセンターの自動ドアを開け、入ろうとした際に声を掛けられました。
「シンプル?」
振り向くとそこには私の母が涙ぐみながら、立っていました。

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