「質問はありますか」
個人的には、傍聴人として発表を見ているときの、この時間が好きではない。
「質問はありますか」というフレーズによって、自分の思考のペースを乱され、場合によってはそれが発表者と自分双方の時間を浪費する状態を招くからだ。
そもそも、僕の中では、ひとくちに「質問」(=聞きたいこと)といっても、最低でも以下の2種類に分類されていると思っている。
1. 自身の単純な知識不足による(と考えられる)不明点を確認する「質問」(以下前者)
2. 発言者(発表者)の意図・考えを確認する「質問」(以下後者)
僕は、このうち1に当てはまる質問をしてしまうのを極端に忌避している。1. はネットスラングで言うところのググレカスに該当するものであるが、すなわちインターネットで調べれば恐らくわかるものである。あくまで自分自身の知識不足に起因するものであり、突発的にこの質問をすることは、発表者や同聴者の時間を奪うことになる。
(確かに自分以外の同聴者も分かっていないかもしれないが、最低でも今の時間を使って質問をしなくても解決が可能であることであり、それに時間を使うのは良くないと考えてしまう。)
一方、2. は単なる知識の問題ではなく、その相手の思考に関わる部分であるから、それは調べてもわからない。それは質問として相手に投げかけるべきである。
本題に戻る。自分の思考のペースが乱されるというのはなぜかといえば、4過程を経る必要がある「解釈」を実施して後者に相当する質問をしたいにもかかわらず、質問タイムという、ある種「質問を強要されている時間」により、「解釈」の時間を奪われているように感じてしまうからである。
ここでいう「解釈」というのは、①自分自身のなかで前後者の質問の判定、②前者の知識の補完、③後者の自分の中での考えとのすり合わせ、そして、④確認すべき意図の抽出という過程を総称している。この「解釈」を経て、自分はようやく「意味のある質問」(いわゆる後者の質問)を生成している。
「解釈」が長くなるのには理由がある。僕は、自分が説明を聞いた中で分かっていない、モヤッとしている状態である各説明が、どちらに起因しているのかが基本的にパッとわからない。そのため、①の通り、それを「判定する」時間が必要となる。そして、自分の単純な知識不足であろうの部分を調べて補う時間②が必要となる。つまり、人より質問に至るまでに必要だと考えているプロセスが多い(たぶん)。
しかしながら、こうした時間は発表の中で設けられることは少ない。そうなると自分の「解釈」ができないまま、質問をすることになる。運良く後者の質問の生成にまで「解釈」が達していればよいが、大抵そうは行かない。結果として非常に低クオリティな質問を生むことになる。それはお互いにとって有意義な時間を使えていない状態であると思うので、良い状態ではないと思ってしまう。
ここまで書いてなんかよくわからなくなったが、この話はすなわち、「僕は考える時間をもらったうえで、自分で『解釈』したうえで質問がしたい」ので、発表の最後にある質問タイム的なものは苦手であるという話である。その一方で瞬発的な質問力というのも世の中で求められているような気がするので、その能力も必要になるはずであるという自戒である。
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といった具合に思考の整理がてらたまに「思考の吐き捨て」マガジンを書いていくかもしれない。
今回書いてみて、自分の中の思考をもう少し具体的な話に持ち込んで整理できるようにしたいと思った。
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