「柔らかな不条理劇」は成り立つのか? 情熱のフラミンゴ「ドキドキしていた」@こまばアゴラ劇場
情熱のフラミンゴも本公演を見るのは初めて。「ドキドキしていた」では青年団から3人の俳優(木村巴秋、根本江理、兵藤公美)も出演していて、個性豊かな演技を繰り出し、作品の強いアクセントとなっていた。
情熱のフラミンゴの作品がいつもそうなのかはよく分からないが、この「ドキドキした」は一種の不条理劇だ。別役実よりはどちらかというとベケットを連想させる。
「埼玉の新興住宅地から遠く離れた空き地」とされているけれども、そこにはなぜか冷蔵庫とベッドのような箱といくつかの椅子が置かれている。そしてこの場所はどこからともなく多くの人が集まってくる。「ゴド―を待ちながら」の1本の木の前や別役実の電柱の前に近いといえそうだ。こまばアゴラ劇場の劇場構造を活用して、舞台下手に地下シェルターの入り口があるが、先ほど言及した冷蔵庫と同様になぜこんなものがここにあるのかという説明は観客に理解可能な形ではほとんどされない。そういうところもベケットを連想させる理由のひとつである。
「ドキドキしていた」という表題は二人の女性がここに持ってきた高級アイスの商品名だということになっている。だとすればエストラゴンとウラジミルのように物語の中心に置かれるのはこの二人なのかとも考えるが、そんなことはなくて、素性のよく分からない奇妙な登場人物がここに来て、出会ってまた別れるというのが繰り返される。ベケットや別役実のような不条理劇の形式をとりながら、全体としての構造が不定形に感じられて一層とりとめがないという感じが否めないのだ。
例えば「ゴド―」のように実はそれが隠喩として何か別のものを表現しているのではないかということを思わせることもあまりない。
その結果作品を見終わってまず残るのは根本江理が演じる姉や兵藤公美演じる謎の女のエキセントリックな面白さが一番であって、平田オリザの世界では絶対に出てこないように思われる奇妙な人物像を嬉々として演じている彼女たちは非常に魅力的でそれだけでも見る価値はあるともいえるのだが、作品全体は茫漠としすぎているという印象は否定しがたい気もした。物語の後半部分に遠い未来や遠い過去に想いをはせて「人間は変わらないだろう」とチェーホフをイメージしたと思われるセリフを独白する部分があり、強い印象を残すのだが、作品全体の中でのこの意味合いがいまひとつはっきりしないのが残念に思われた。「柔らかな不条理劇」とでもいうべき作風だが、別役実やベケットを見れば分かるように不条理劇の不条理というのは実はガチガチに論理的に構築されていることが多く、「柔らか」「ゆるやか」とは水と油。「分からない」から不条理ということではないし、だったら何なのだろうと思ってしまうからだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?