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青春ブラウニー

時々ふと思い出したようにブラウニーが食べたくなる時がある。食べる度に、忘れていた大事なことを思い出させてくれるそのお菓子は、自分にとってちょっと特別なお菓子なのだ。

バンクーバーの語学学校で仲良くなった友人の一人にテサンという韓国人がいた。

今からどこどこへ行く、と言うと「オレも行くよ」といつもついてきてくれた彼とは、まるで兄弟のような関係だった。日本人同士のようなあっさりとした感じではない。韓国人とはそういうものなのか分からないが、もっと濃密なものを感じた。

一緒のクラスだったから、授業が終わると連れ立ってあちこちへ行った。彼はこっちで働いていたお姉さんと一緒に暮らしていたので、遊んでそのまま夕食をレストランで一緒に食べるようになった。


そのうち彼らのマンションで晩御飯をごちそうになるようになっていった。食べてく?と言われて「食べる」と即答していた。
美味しい韓国料理をご馳走になり、お返しに日本料理を作ったりした。一緒にキッチンに立ち日韓料理を作ることもあった。お姉さんの友人も交えて酒を飲みながら、よくバカ騒ぎをしたものだった。

テサンは大人しい性格で、いつも人の後に立っているような男だった。少年の頃、不良だったのが想像できなかった。何でも家では手に負えないと、寺に預けられていたこともあったようだ。そういえば宗教の話をしたときは、自分は仏教徒だ、と億面もなく言っていた。改心したのかもしれない。


ある日いつものようにマンションに行くと、ブラウニーを焼いたけど食べる?と言われた。
まさか?テサンがブラウニー焼いたの?とびっくりしたが彼は自分が作ったと言う。それがとても美味しかったので(ブラウニーはその時初めて食べた)、それから時々思い出したかのように、焼いたんだけど食べる?とブラウニーをくれた。本当に彼が作ったのだろうか、と今でも疑問に思っているが、それはとても美味しかった。

僕はアメリカの西海岸を旅行して帰国するつもりだったから、彼よりも一足先にバンクーバーを離れることになっていた。本当は離れたくないくらいだったけど、どっちみちいつかは出国しなくちゃいけないのだった。

まずはバスでシアトルに行くことにしていたので、グレイハウンドのバス乗り場まで、朝早く彼は、何人かの他の友人達と見送りに来てくれた。明方まで一緒に遊んでいたので、見送りには来なくていいと言っていたのに、来てくれたのだった。

寂しい別れだった。人と別れる寂しさを味わうのは久しぶりだった。他に見送りに来てくれた者もみんなしんみりしていた。中にはこれから二度と会うことはない人もいるんだろう、と思うと余計寂しかった。

「むこうに着いたら食べろよ。昼ご飯だよ」

とテサンはクッキーの缶を渡してきた。中にはサンドイッチか何か入っているんだろうと思った。まさか?明方まで一緒に飲んでいたんだ。いつこんなものを作る暇があったんだ。寝ていないんじゃないか、と思った。テサンの寂しそうな顔をよく覚えている。

シアトルはバンクーバーよりも殺伐としていた。治安の悪いエリアの安宿に泊まったせいかもしれなかった。宿への道のりで、黒人同士の殴り合いのケンカをいくつか見た。

あいにく、アメリカの学生の休暇と重なっていて、宿はどこも満室だった。2,3軒回って疲れ果て、どこでもいいから寝かせてくれ、と頼んだ。床にマットレスをひいてやるそれでいいか?と言われてオーケーした。今日はここで寝るのか思うと、ひどく殺伐とした気分だった。

とりあえず、寝床を確保できたときには、夕方になろうとしている頃だった。前日はよく飲んだので、朝から何も食べていなかった。そうだ、テサンのサンドイッチだ。

思い出して、いそいそとクッキー缶を片手に公園を探してベンチに腰掛けた。バンクーバーでのあの楽しかった日々と、こっちの殺伐とした空気とのあまりのギャップのせいか、心の中は乾ききっていた。日本を離れてバンクーバーに来た時よりもずっと寂しいものを感じていた。

果たして蓋をあけると、そこにはびっしりと2段重ねになったブラウニーが入っていた。とっさに、やられた!と思った。テサンとお姉さんの置手紙が中に入っていて、

「あなたと知り会えてよかった。泣くなよ(笑)」

と書いてあった。

できればサンドイッチの方がよかった、と思いながらも、胸にはこみ上げてくるものがあった。



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