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【夢小説 013】 夢伍位「気分屋ロリヰタ そらを飛ぶ(1)」

浅見 杳太郎ようたろう

 まるで行軍のようだ、と思う。

 空には今にも雨粒を落として来そうな灰色の雲が、ある所では厚く、そしてある所では薄く、そんなふうに自儘じまままだら模様を作っていて、夕べの陽の光を意地悪く覆い隠してしまっている。

 磯の香りがするけれど、海は見えない。風に運ばれて来るその香りを、すうーっと鼻腔を拡げて吸い込むことで、僕は辛うじて、海の気配を知る。磯の近さを感じる。

 大人数でぞろぞろと、寂れた集落の中を足早に歩く。潮騒はこの圧倒的な靴音の重なりの中に力なくうずまり、空耳のように僅かに空気を揺らすばかりだ。一方、この行軍の喧騒けんそうをよそに、集落の家々は他人顔で神妙に黙りこくっている。

 ここは、多分、漁村だろう。

 辻々に、揚繰あぐり網やもり、それに木製の紅白の浮環うきわや色せた大漁旗などが打ち捨てられていて、雪の粉が撒かれたようにほこりを被っていた。舟首が傾いた木舟も、陸の上であえいでいる。舟は木目に沿ってずぶずぶと腐り黒ずんでいて、最早ふたたび海の上に浮かぶことは叶わないように見えた。繋索けいさくも腐っていて、もうかいを繋ぎ止める力も残っておらず、槙皮まきはだひのきも、かつての香気は早や失われて、今や辺りに腐臭を放つばかりだった。

 つまり、この漁村は、静かに死のうとしていた。

 磯の香りだけが、豊かに僕の鼻先をくすぐった。

 生温かい風が右手から吹いて来る。僕はこの潮風を、目を閉じて思いっきり吸い込んでみた。潮の香りが、僕の鼻孔をふわりと包む。波打ち際の鮮やかな青の色彩の満ち引きが、目蓋まぶたの裏に浮かんできた。でも、目を開けると、その叙情的な印象をもたらした匂いは、にわかに変わる。腐ったような、でも妙に肉感的なえた臭いに変わる。夏の盛りの曇り空の下、海岸近くの陰気な村落をぬらりと覆い潰す、この湿気と臭気の重苦しさといったらどうだろう。結局のところ、臭覚は視覚と連動していて、僕が見ている陰気な漁村の風景が、僕が嗅いでいた豊かな磯の香りに、不都合な味付けを施したという訳だ。僕がえて知覚の埒外に放り出しておいた村落の腐臭を、視覚が、お節介にも思い出させてくれたのだ。

 途端に、僕は重荷を背負わされた兵士のように、すっかり疲れきってしまった。そして、思う。まるで行軍のようだ。

 僕らは、足を止める訳にはいかないのだ。

 一緒に歩いている連中の、靴裏で地面を叩く響きには、実に様々なリズムがあった。ざし、ざし、ざし、ざし、という規則正しいもの、ざ、ざざー、ざ、ざざーと片方の脚を引きるようなもの、かかん、かかんと硬質な音を立てるもの。それ以外にも諸々、一人一人の足音はそれぞれ確実に違っていて、しかも、その各々の足音だって、一歩ごとに全く異なった音を立てていた。それらの、雑多で混沌とした足音は、聞くともなく僕の耳の中に、つるりと無遠慮に這入はいって来る。そして、その雑音の束は、頭の中で、僕が気持ちいいと思う歩行の拍感と都合良く一緒くたに処理され、振り子が規則正しい振り幅で行ったり来たりするような、圧倒的な存在感を放つ反復となって、ざわん、ざわん、ざわん、ざわん、僕の脳内を、正確に脈打つように掻き混ぜてゆく。

 この単調な音がなければ、僕はとっくに、この行軍から脱落していただろう。云い換えれば、僕は、このざわんざわんの反復によって、強制的に歩かされていた。

 チェロを背負っていないのが、せめてもの救いだった。大きい楽器、つまりコントラバスやチェロ、それにチューバや打楽器などだが、そんな個人で運ぶのが難しいと思われる楽器に関しては、楽団がトラックで運んでくれていた。チェロなんかは十分、肩に掛けて運べるのだが、女の団員が不平を云ったことから、それ以来、トラックに積んで貰えるようになったのだった。

「何で、チェロはトラックに積んで貰えて、ファゴットは駄目なんだろうねえ」

 いつの間にか、僕の隣にファゴット吹きの団員が歩いていた。彼の声が、ざわんざわんの反復から、僕を連れ戻す。そして、僕は、勃然ぼつぜん、脚の疲れを自覚した。

 気が付いたら、道は下り坂になっていた。しかも、地面に苔や水垢がこびり付いていて、いやにぬめる。僕の両腿は重力と悪路に抗うように、力み震えていた。

 すぐ右手を見ると、崩れかけた石垣や、雑草を剥き出しにした土手が、壁のような圧力でもって切り立っていた。漁村の破屋の連なりは、遥か頭上にあった。あごを上げなければ、それらが視界に入らないほどに、僕らは急坂きゅうはんを下って来ていたようなのだ。左手はガードレールも何もなくて、彼方下まで見渡せた。九十九折つづらおりの下り坂を辿ったずっと先に、鍋底のような狭い平地があって、そこにぽつりと、一般の家屋よりも大きめな赤い瓦屋根が望見できた。それが、今夜の宿舎のようだった。擂鉢すりばち状に、四方を山やまばらな集落に囲まれて、その瓦屋根は、ダム底に沈むのを従容しょうようとして待っているかのように、諦めきって見えた。

「さあね、別におれがトラックに積んでくれと頼んだ訳じゃないから」

 僕はファゴット男に、ぶっきら棒にこたえた。疲れていたのだ。ファゴット男は、女性的な柔らかい声で云った。

「まあ、確かに、チェロの方がかさ張って運びにくいんだろうけど、これだって結構、重くて難儀するんだよねえ」

 ファゴット男は自分の楽器を指差して、皮肉っぽく笑った。僕はそこで初めて、彼がケースに入れずに、裸でファゴットを担いでいることに気が付いた。竹のように真っ直ぐに伸びる、赤茶色のくだを両手でしっかりと抱きしめている。持ちにくいはずだ。

「どうして、ケースに入れないのさ? それじゃ、余計運びにくいだろうし、何より、危ないだろう」

 彼は、ああこれ、と云って、自分の愛器を撫でながら、

「ファゴットってさ、片付けに時間かかるんだよね。でさ、撤収の時間に間に合わなくてさ、会場から追い出されちゃったんだ。呼んどいて、演奏終わったら、さあ、出てけじゃ、切ないね、ほんと。毎度のこととは云えね。でさ、ケースは他の団員が、勝手にトラックに積んじゃったみたいなんだよ。あーあ、踏んだり蹴ったり。んなっちゃうね」

 と、愚痴を洩らした。

 追い出されるとは穏やかじゃないが、でも、切ないという気持ちは、分からないでもない。演奏が終わったら、僕らはもう用済み、お払い箱なのだ。


 僕たちは、全国各地を演奏して廻る。呼ばれたらどこにでも行く。小さい楽団とはいえ、曲がりなりにも交響曲を演奏するのだから、最低でも五十人以上は常時、引き連れて旅をすることになる。道々、忽然こつぜんと姿を消す団員もいる。その代わり、気付いたら、新しい顔と膝付き合わせて、宿で晩酌を交わしている、なんてこともざらにある。給金は、お客さんの機嫌によって決まる。僕たちは主にクラシックをるが、求められれば、俗謡だろうが、流行歌だろうが、それこそ、軍歌だろうが宗教曲だろうが、何でも演る。ホテルの大広間で演奏することもある。老人ホームの談話室で披露する場合もある。ろくに音楽なんて聴きやしない酔っ払いや耳の遠い老人たちの前に出て、礼服に蝶ネクタイといった出立ちで、神妙そうに演奏する僕たちは、さぞかし滑稽こっけいだろうと思う。でも、それが、僕たちの仕事だ。

 今日は商工会議所の会議室で、ワグナーのローエングリンやマイスタージンガーの有名な前奏曲などを演ってきた。アンコールでは先方の要望通りに、軍艦マーチと唱歌ふるさとの二曲を振舞った。そして図らずも、観客のじいさんばあさん方による合唱付きとなった。僕は、彼らが電灯艦飾でんとうかんしょくを施した軍艦の甲板かんぱんの上で、兎を追っかけたり、小鮒こぶなを釣ったりするを思い浮かべて、少し笑った。頬笑ほほえましかったのだ。

 じいさんばあさん方が曲がった腰で、必死に商工会議所まで聴きに来てくれて、アンコールでは手拍子まで取って喜んでくれた。枯れた喉を精一杯震わせて、一緒に歌ってくれた。涙を流しながら、聴き惚れてくれた。

 僕は、そういう姿を見ると、素直に嬉しくなる。僕らの音楽が人の役に立っていると思えるからだ。彼らの前時代的な熱狂やノスタルジックな感傷を、客観的に眺めて冷笑する、なんてことはしない。する必要もない。僕は、抹香まっこう臭い新興宗教の宣伝歌でも、化石のような闘争歌でも、喜んでくれる人がいるのならば、こだわりなく弾く。その曲に五線譜で書かれた譜面があって、僕の技量が及べばの話だけれど。

 僕は、僕らの音楽で喜んでくれる人がいるということが、単純に嬉しい、と思う。

 でも、正直、もっと嬉しいのは、僕らの音楽から受けた一時的な興奮によって、お客さんの財布の紐が緩くなり、おひねりが増えることであって、そして、そのおこぼれが末端の団員の僕にも回ってくるということだ。結局は、それだ。喜んで貰えることは、嬉しいに違いないのだが、残念ながら、それだけじゃ腹は膨れない。これは、仕事なのだ。

 僕は観客の財布の紐の緩み具合を推し計ることに関しては、それなりの慧眼けいがんを有しているつもりだ。会場の熱によって、どの程度おひねりが入るか、大体云い当てることが出来た。今日ならば、缶ビール二本とツナ缶にチーズたらくらいならばあがなえる程度の小遣いが回ってきそうだった。これは、結構な首尾だ。生活に付随する飲食代や宿泊代、それに、演奏後の宴会代は団がもってくれているので、小遣いは丸々、給金とは別に、自分の蓄えになるのだから。気儘きままに使える金が多ければ多いほど、僕は上手に呼吸が出来る。

 しかし、こういった好首尾にも、他の団員の多くは、大した興味を示さなかった。演奏後、皆、黙りこくって粛々しゅくしゅくと後片付けをしていた。今日一日の厄介事が終わった、といった安堵あんど、いや、ひるがえって、明日もまた同じような一日が待っている、といった気だるい諦観ていかんが、多くの団員の背中にのぺりと負ぶさっているように見えた。僅かながらの小遣いに色めき立っているのは、この団ではまだ若手と目されている僕や、在団年数の少ない団員たちだけのようだった。

 そうして銘々めいめい、撤収作業を進めていると、思いがけず団長から、宿舎までの移動手段がないことを告げられた。この辺りは、未だに時代錯誤的なボンネットバスが走っているという話だったが、十七時には終バスが出てしまっていたのだ。僕らの想像を絶する田舎だった。終演の時点で、とうに十七時は回っていた。明らかにスケジュール管理のミスだった。若い団員たちの糾弾に、団長は、アンコールで盛り上がり過ぎた、老人孝行だと思って我慢してくれ、と応えた。それでも納得のいかない団員は、では、あのじいさんばあさんたちだって足がないのに、一体、どうやって家まで帰るというのか、と食いついた。すると団長は、彼らは帰らない、死ぬ覚悟で朝まで感傷に歌い追憶に涙する気だ、と無責任に云い放った。

 楽団の所有する車両は、骨董こっとうのような三tトラック一台のみで、楽器を積んだら、それだけで荷台は一杯になってしまう。あとは運転手と助手席に座る二人の、合わせて三人が一緒に運ばれるばかりだ。したがって、残りの団員は、必然的に公共交通機関の利用を余儀なくされる訳だが、今回、それすら使えないとあっては、己の足を使って、ぺたぺた、宿舎に辿り着くより他に術はないということになる。憮然ぶぜんとした空気が流れた。皆、ぶすりと黙り込んでしまった。

 しかし、その重苦しい沈黙も長くは続かない。ある年配のホルン吹きが、さ、撤収撤収、とぼそりと呟き、らくだのように折り畳んだ脚を億劫おっくうそうに伸ばして、ゆっくりと立ち上がった。そして、彼は巻貝に良く似た楽器ケースを肩に掛け、無言で会場を後にして、のらりと宿舎までの道を徒歩かちにて辿り始めた。結局、残りの団員も、それに従った。若い団員らの不平は、集団の諦念ていねんの中に、力なく曖昧に埋没していった。

つづく。

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