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愛なんだ

目を瞑ると瞼にオレンジや黄色がチカチカと浮かんだ。
キリリとした痛みが下腹に走る。冷や汗がどっと湧いて出た。

スーパーマーケットのトイレの個室で腹痛に耐えていた。前日に食べた家系ラーメンの油と太く縮れた小麦の麺が消化不良を起こしているのかも知れない。

腕時計に目をやる。
時刻は午後2時、浮かれた日曜日スーパーは家族連れやカップルで賑わっていた。

ひとしきり用を足すと隣の個室からも声が漏れ聞こえてきた。
気張るような、咳払いのような低い唸り声だ。

自分の尻拭いを済ませ個室を出ようと腰を上げた時、隣の個室からかすか音楽が流れた。

「風のガードレール 行きたい場所もなくどうしてこんなに乾いているんだろう」

おそらくスマートフォンで動画でも見ているのだろう。
数秒程度の短い動画を連続的に閲覧できるプラットフォームは掃いて捨てるほどもある。
AメロからBメロ サビに近づくにつれて音量が上がる。聞いたことのある曲だ。
僕は耳をそばだてながらも曲名を思い出せずにいた。

「Yeah そうなんだ きっとここから愛なんだ はじめることが愛なんだ 傷つくこと恐れちゃだめ だめ だめ だめだよ baby 」
曲の盛り上がりに呼応するように隣人の唸り声のボルテージも一段上がる。さながらLIVEのようだ。ぽちゃんと『それ』が水面に落ちる音がした。
その音がまるで号令のように曲が止んだ。再び静寂に包まれるトイレ。
人で溢れかえったスーパーマーケットのトイレのはずなのにまるで闇深い夜の森のようだった。

数十秒、いや数秒だったかもしれない。静寂の中に隣人の荒い息遣いだけが聞こえる。

自分が間抜けにも中腰でズボンを半分下ろした状態であることに気づく。
そうだ。もう用は済んだのだ。自分の『それ』に別れを告げるべく水洗トイレのレバーに手を掛けた。その時、
「風のガードレール 行きたい場所もなくどうしてこんなにも乾いているんだろう」
思わずレバーにかかった手を引っ込めた。二周目?
僕の脳裏に刹那イノッチの顔が浮かんでは消えた。

呆然と立ち尽くす僕、置き去りにするようにメロディーは続いていく
「Yeah そうなんだ きっとここから愛なんだ はじめることが愛なんだ 傷つくこと恐れちゃだめ だめ だめ だめだよ baby 」
隣人がサビに合わせるように唸りだす。ブピピという音が拍を取るように調子よく響いた。トイレの中には排泄音と歌声が交差しひととき複雑に交わった。

僕は予感した。そしてその予感は間も無く確信に変わった。
隣人はおそらく、いや確実にV6の『愛なんだ』を音姫の代わりに流している。
証拠に彼は『それ』を捻り出すたびに何度でもリピートした。

その気づきは僕の中で大きく渦を巻いた。
動かない体に相反するよう思考は巡る。なぜV6?WAになっておどろうではだめなの?イノッチそうイノッチは会見の後大丈夫だったのか?
僕は白い便器の中に情けなく居残り続ける『それ』を見つめることしかできなかった。

ひとしきり考えたあと顔も知らない隣人に思いを馳る。
そうか。彼は近くにいる誰かに気をひかせないように彼は歌を流していたのだ。
歌は彼にとっても心の支えであり、恥ずかしいその瞬間を少しでも和らげる力を持っていた。
彼は自分の弱さを受け入れ、同時に勇気を振り絞り、外の世界と向き合っていた。生きていた。

彼が捻り出していたのは『糞』であり同時に振り絞っていた『勇気』
そしてきっと愛。
そうなんだ きっと『愛』なんだ。

特に別れを惜しむ様子もなく隣の個室からジャーと水の流れる音がした。

音楽はもう止んでいた。








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