器楽上達の方向性

最近、上達というのには少なくとも2種類あるのかなと思うようになった。1つは楽器演奏能力そのものの上達、もう1つはレパートリーの開拓である。
前者と後者には明確な違いがある。前者は数値化できないのに対して、後者は数値化……とまではいかないものの、他者と進度を共有しやすい点だ。
なぜそんなことを考えるようになったのかといえば、SNSでそこにつながる議論をしている方が流れてきたからである。
片方は「練習時間のわりに上達してない」と言い、言われた方は「私、こんなに色々弾けるけど」と返していたのである。彼らの人間性は知らないが、噛み合っていないように感じた。おそらく、上達という単語に対する感覚が違っていたのだろう。
レパートリーが増えるというのは、センスの有無を問わず定量的でわかりやすい。何をもって「レパートリー」と言えるのかはその人次第ではあるが、発表会で披露した→レパートリー、と考える人を見かけたので、ある程度ルール化しておけば達成感も生まれやすい。エチュードをどこまでやったというのも、ここに含めてよいかもしれない。
演奏するという行為は、スキルのみならず、その人の音楽性や歴史、言語といった知識、ひいては人生そのものがセンスとして表現されてしまいかねない。センスに優劣をつけられるものでもないが、何かしようとしているのか、何もせずに弾いているのかは、何かしようとしている人から見ると、すぐにわかるらしい。そして「何かする」というのは言語化、メソッド化が難しいものでもある。
演奏能力の上達はレパートリーが増えることほどわかりやすくないから、達成感も得にくいのではなかろうか。しばらく歩いてから振り返り、あぁ上達してたんだなぁ。とようやく感じられるものなのかなと思う。
なんとなく、演奏能力は木の高さ、レパートリーの広さは枝葉の多さなのかなと考えるようになった。
弾きたい曲があるのは素晴らしいことだ。先生に教わって、自分では気付けなかった点について指摘をいただくのはレッスンの醍醐味である。とはいえ先生に言われるがままに弾いて「レパートリーと呼べる曲」を増やすというのは、同じ高さで枝葉を増やしている状態なのかなと思う。
木を伸ばすには、枝葉へ養分を送ることを制限することが必要なタイミングもある。本当にこれでいいのだろうかと、自分の耳で聴いて、自分の頭で考えることを必要だろう。
どの方向性を選択するかはその人次第だし、私に関係のあることでもないが、その人が望んだ方向に近づけるような努力を選択できてハッピーな方が増えればいいなぁと、ぼんやり考える。

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