『言葉』という『力』

 いきなりだが、読者の方は自分自身が発した言葉に力があると自覚しているだろうか?

 俺はまだ未熟ながら自覚……している方だと思う。
 ここで言う『力』とは当然物理的に発揮するようなものではなく、精神に作用するもののことだ。
 わかりやすい例ならば『応援』などがそれにあたる。応援は活力をくれる。もうダメだと思っていても最後の振り絞りを可能にする気力をくれる。
 逆の例だと『悪口』などが力を持つ。言われた本人はダメージを負ったり場合によってはトラウマになる。人によっては気にしないって人もいるだろうがプラスの力にならないのは明白だろう。

 さて、ここまで進めてどう思うだろう。「え、そんなこと?」「それならそりゃ知ってるとも」とか思ったりはしないだろうか。今挙げた例はとてもわかりやすく『プラスの感情』『マイナスの感情』と両端に属するものだ。
 ここで次に自分が提示したい例は、『冗談』だ。この場合、どういう力があるだろう。
 これに関しては当人達の関係性、絆の強さなどに影響されることだろうと自分は考えている。当然内容にもよる。
 『冗談による悪口』所謂『軽口』と『冗談でない悪意のある悪口』には大きな差がある……と考えられていることだろう。周りの人を見ているとなんとなくそう感じる。

 しかし自分はそうは思わない。例えばの話だが……冗談で「死ねよお前」って軽々しく言う人がいる。この字面、どう思う?
 やり取りの中で笑いながらそんなことを言ってたら冗談なのだろうと思うが、友達というには距離感微妙な相手に言っているとしたら?友達だとしても口頭のやり取りではなく文章だとしたら?「死ね」という言葉はあまりに強すぎる。
 そして、その言葉のジャッジをするのは発した本人ではなく受け取った側の人なのだ。その言葉を冗談として受け取る人も当然いるが、傷付く人も一定数存在する。冗談だとわかってて尚不快に思う人だっている。
 その際に発生する力というのは大体の察しは付くかと思うが、大していいものと呼べるものではない。傷ついた人からしたら呪詛以外の何物でもないし、冗談だとわかってて不快に思っている人からしたらその冗談とやらは暴言に成り果てる。呪詛も暴言も心にダメージを積もらせる。関係性が良かったとしても緩やかに摩耗していくことだろう。
 冗談として受け取る人だってそれを活力なんかに変えられない。変えられる状況があるとするなら命の懸かってる極限状況だけだ。

 だからといって冗談を言うな、なんて馬鹿なことは言わない。言葉を選べ、という話に落ち着く。そして冗談で不快にさせてしまったならそれは非を認めて謝罪するべきだ。
 傷つけた、不快にさせたのに非を認めず、謝罪もできず自分の言葉の力に責任を持てない人は、いずれ大事な局面で人間関係を破綻させるのだろうと思う。
 自分はそうならないようにと自戒しつつ、これにて筆を置こうと思う。とっちらかってるけどスッキリした。

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