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世界の起源って女性器のことだったんですか

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 記事の開幕いきなり女陰(にょいん)というのもなかなかのご挨拶だが、これがクールベ「世界の起源 (L’Origine du monde)」である。これは19世紀でもっとも猥褻な絵画と言われているらしい。2014年に、アーティストのDe Robertis がこの絵の前で自らの「世界の起源」を露出するというパフォーマンスに踏み切ったこともある。性が横溢する21世紀においてもなお、スキャンダラスな絵である。
 ぼくもこの絵は好きだ。何よりタイトルがいい。絵としては写実主義というか、神秘化をさけてそのまま描いてあるわけだが、女陰をドンと置くだけでかっこいいというのもなかなかすごい。変な言いかたになるが、配置のセンスのよさというか、インテリアコーディネーターの手際みたいなものを感じる。

 ぼくはさいきん知ったのだが、この絵はラカンによって所有されていたことがある。精神分析家が、神話調のキラキラした裸婦像を好まず、かえってこのような直截的な絵を好むというのはよくわかる。ひねくれたところのあるラカンならなおさらだ。
 ラカンはこの絵をギトランクールの別荘に飾ったが、この絵の上にシュルレアリスムふうの模写を飾って隠していたという。このあたりはラカン自身の考えなのか妻の考えなのかよくわからないが、容赦ない思想家の、意外と社会的な部分が見え隠れしておもしろい。

 ラカンついでに精神分析的な小話をひとつ。ラカン派の分析家は「穴」「裂け目」から現実界がのぞくのだ、という言い方をよくする。現実界というのはラカンの中心概念のひとつで、ざっくり言うと「物それ自体」のようなもの、言うことの不可能なものだ。人はふだん言葉をあやつり、自分のもつ色眼鏡によって世界を見ているが、ときおりトラウマ的な体験などの「裂け目」「穴」から「物それ自体」が顔を出すことがある。それが「現実」だ。
 先に述べたアーティストのDe Robertisは、クールベはこの絵で陰部を見せたが「穴」の中までは見せなかった、「起源の起源(the origin of the origin)」を見せなかったと言っている。これらは奇妙に符合しているように思う。クールベは写実主義者でありながら、現実界に迫るようなことはしなかったわけだ。

 さて「世界の起源」では、女性の顔が隠され、裸体のみが露出している。マグリットにも似たような絵がある。「陵辱(Le viol)」だ。

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 この絵は「世界の起源」よりさらに暴力的である。マグリットは精神分析的な解釈、さらにいえば解釈そのものを拒否していたので、あれこれ述べることは避けたいが、この絵が男性の視線をよく表現していることについて異論はないだろう。クールベの絵とアプローチは似ているが、もたらされる結果はまったく異なっている。こちらのほうがより「現実」に迫っていると言うことはできないだろうか。

 

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