名前を呼んでやりたいが、そもそも舌に名前なんてない

言いたいことはいくつある?
ひとつしかないなら言わずに黙っておくほうがいい
もし手に余るほど持っているなら
その大半は考えるだけムダだ
言いたいことはいくつある?
ひとつもないなら、舌は要らない
口の中でペットみたいに大事に飼いつづけてみても
いずれは言葉とともに腐ることになる
(「エイミーと尨犬」小林大吾)

 ぼくが憧れる職業といえば映画監督と相場は決まっていたのだが、さいきん「詩人」にも憧れるようになった。詩人になるためにどうしたらいいのかはよくわからないので、宮沢賢治の「春と修羅」をぱらぱらめくったりしている。
 そのきっかけになったのがアーティスト・小林大吾だ。

 ある日車に乗せてもらっているときにそのひとが小林大吾の「エイミーと尨犬」をかけていた(ほんとうは動画もそれを貼りたかったのだが公式チャンネルになかった)。
 悪癖だとは思うが、ぼくはいつも同じようなアーティストしか聴かないので、人が流している他ジャンルの音楽を聴いても、それに興味を持って自分で聴いてみようとはしないことが多い。だが、そのときはどうもそのつもりになった。冒頭に引用した言葉がよほど印象的だったからだろうか。
 このように断片的な導入により、今でも「エイミーと尨犬」が入っているアルバム「1/8,000,000(やおよろず)」を聞いてみるだけで、ぼくは小林大吾についてあまり多くを知らない。詩もトラックも声もカッコいいな、と思うくらいだ。なのでこの記事もひとつの断片にすぎない。

 ぼくは彼の詩が好きだ。と思う。確信はない。
 そもそも自分に詩の良し悪しがわかっているのかということがわからない。ぼくが慣れ親しんでいるテクストは数学や哲学にまつわるもので、それらは大なり小なり言葉を誤りなく正確に解釈して読むことを我々に課す。プログラミングだってそうだ。

#include  <stdio.h>

main( ){
printf("hello, world\n");
}

なんか、詩からもっとも遠い文字列ではないかとさえ思う。そこには意味しかない。だが詩は誤読しか許さないように思える。正しく読む訓練が存在するとしても、誤読の訓練などはたしてできるものだろうか。

詩を象にたとえて見るならば、詩人は群盲なのかも知れない。
山之口貘

 話を小林大吾「エイミーと尨犬」に戻すと、ぼくには言いたいことがひとつもない。なので舌は要らない。でもそんなことは認めたくないのでただただ舌を動かしている。そんな感じだと思う。

 小林大吾は最終的につぎのように問いかける:

言いたいことはいくつある?
ひとつもない
なら、言いかたを変えよう
言うべきことはいくつある?
(「エイミーと尨犬」小林大吾)


ください(お金を)