「通勤」に逢いたい。

『用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。』(内田百閒「特別阿房列車」より抜粋)

汽車というものは、用時抜きで乗りたくなる乗り物である。すらりと伸びた線路上を、ゆらゆら心地良く揺られながらどこまでも。車窓からの風景は日本の風光明媚を四季折々に伝えてくれるし、時々流れる車内アナウンスや切符を確認しにくる車掌さんの一挙手一投足ですら、規律の清々しい一面を感じさせてくれる。

対極にあるのが、通勤電車だ。そこにあるのは何時までに着かねばならぬという目的のみ。乗り合わせた我々の目線はやや下向きで、車窓へと一瞥をくれる余裕すらあまりない。朝は眠く、夕には疲れ果てた身体を押し込んでなにが楽しいのか。降車までの時間を顔見知りと会話できる人は幸せである。車内の窮屈を紛らすことができるから。

ことほど左様に、人を運ぶという意味においてなんら異ならない両者を明確に区分するのは目的である。ここに要点を集約した気分になった私は、さっそく一通りの準備をすませ、行動を開始した。
一体なにを? “通勤電車も通勤に乗るのでなければ楽しい”という仮説の実証である。

学生という領分はこうした旅行に最適だった。若かりし私は、大阪へ行く手はずを整え、まだ夜も明けきらない駅のホームに立った。
始発付近の通勤電車はさすがにあまり混んでいない。さりとて、一様に眠い。座席の誰もが目を閉じ、仮にいま総理大臣が乗り込んできても身じろぎしない体勢だ。

列車は定刻通りに動き出した。各駅停車ではないが、それでも同じ路線の特急に比べれば停車駅はとても多い。
やがて少しずつ、乗り込んでくる女性の比率が高くなって「あぁ、通勤の時間に近づいているな」と思った。

車窓から差し込む日差しを意識する頃になると、制服姿の高校生達が乗車してきた。するとたちまち、車内は会話で満たされる。
賑やかな高校生達が乗って、降りて。レールを西へ進めば進むほど、まるでグラデーションを描くように言葉のアクセントが変化する。方言がこんなにも色彩あふれる多様性を持っているなんて、その時まで私は知らなかった。

大阪駅までの道のりは、乗り継ぎで全力疾走させられたりもしたけれど、おおむね阿房で、興味深い道のりだった。
私が立てた仮説は、途中で出会った様々な紆余曲折に紛れこみ、枕木の隙間へと消え去った。 
とはいえ、実証は依然として容易であり、それはたぶん、あなたが乗り込む阿房列車の運行次第である。

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