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現代シルクロード紀行(続編)


オアシス都市ホータン


J.N(元三井金属資源開発株式会社)

<カシガルからホータンへ>


 5月15日、地熱班の2名及び楊氏と別れ、鉱業班3名で、陸路ホータン(和田)へ向う。ホータンから迎えのジープが到着したのは、手違いのため夕刻となり、アトシの克州賓館出発は20時となる。カシガルからホータンまでの距離は530km、途中ヤルカンドで夕食をとり、ホータン到着は2時を過ぎていた。
 ヤルカンドでの食事は、ウイグル人のアリムや運転手が一緒なので、ウイグル食である。ウイグルの主食はナンと呼ぶ自家製のパンと羊肉のシシカバーブである。ナンは直径25cmもあるが、中央が薄く、それ程のボリュームはない。縁の部分が盛り上がっており、この部分は柔らかく、西欧のパンに似ている。中央の部分はカリカリと歯触りが格別で、日本の煎餅である。焼きたてのナンの素朴な味は、パンに勝る。ただし、乾燥するとガリガリになるので、茶やスープにしたして食べる。本場のシシカバーブは美味であるが、カロリーが高すぎるので、3本で遠慮する。ウイグル人は、食器もナイフ、スプーン、フォークも使わない。ナンは食べ物ではあるが、皿の換わりにも使う。中央が薄くしてあるのは、このための工夫であろう。皿ごと食べるとはこのことである。この他に、ポロと呼ぶ、ピラフ〜チャーハン風の御飯、及びスパゲテイ風のウドンが典型的なウイグル食である。
 ヤルカンドで暗夜となった。車は日産パトロール。道路は砂漠の中の幅7mの完全舗装。道が良いので時間はかからないといって、時速130〜140kmの高速で飛ばす。運転手と車に命を預けることになる。夜道のドライブで、途中崑崙の景観を眺める楽しみは失われた。時々、暗闇の中に動物あるいは人影が浮かぶ、又、トラックが強烈なライトを点つけたまま通り過ぎる。その度に、ジープは上下左右に大きく揺れる。生きた心地がしない。ホータンでは、和田賓館の客となる。翌早朝、ホータン地区科学技術委員会のアイラット(艾熱提)氏が訪れ、和田迎賓館へ移動し、朝食を取る。以後、ホータンでの我々の面倒一切を、アイラット氏に取り仕切って頂いた。

<地質鉱産局、第10地質調査隊>


 16日午前、ホータン地区政府を表敬訪問し、鉱山管理局、観光局、地質鉱山局などの地区政府関係者から事情聴取した。
 ホータン地区は、面積24万km2(日本の面積の64%)、広大であるが、そのほとんどが砂漠と崑崙山脈で、人が住めるオアシスは、僅か4%の面積である。人口は150万人で、ウイグル族が97%を占める。ホータン市部の人口は14万人である。
 ホータンは、昔から玉の産地として知られており、最近、砂漠地帯で石油、天然ガス、石炭などが発見されたが、もともとは、オアシスを利用した農業と牧畜、養蚕の国である。
 ホータンには、鉱物資源の調査機関として、地質鉱産局の第10地質調査隊が常駐している。第10地質調査隊の隊員枠は80名であるが、資金不足で、給料を遅配せざるを得ぬ状況である。人材の流出が激しく、人材の確保がままならない。気象、地形条件が激しく、満足の行く調査ができないのが悩みの種であるという。

 ホータン地区では、縮尺1/50万の予察調査を終了した。各所で、金、銅、レアーメタルなどの鉱徴を多数確認した。なかでも興味深いのは、砂礫中にダイアモンドを発見した事である。崑崙山脈の何処かに、ダイアモンドの大鉱床があるはずである。現在、ニア地区で、縮尺1/20万の地化学調査を実施中である。崑崙地区は、地質図はあるにはあるが、ほとんど未踏査なので、既存の地質図はあてにできないという。環境の厳しい崑崙山脈の調査は、ラクダとロバが頼りとなる。「援助・協力してもらえるなら、大歓迎です。しかし、中央を通すと、後回しにされ、何時実現するか分かりません。直接、我々と話して下さい。」というのが彼等の本音であった。

<ホータンの血液と血管>


 ホータンの生命線は、ホータンのオアシスを潤す2大河川-カラカシ川(黒玉河)とユルンカシ川(白玉河)であり、両河川水をいかにコントロールし、いかに利用するかに尽きる。アイラット氏は、まず、カラカシ川のダムサイトに案内してくれた。カラカシ川の取水堰は、オアシスをぬけた砂礫の山懐にある。小さなダムであるが、灰色の融雪水を湛えている。河川水は、川の両岸に分流される。大規模な潅漑路から、東西南北縦横に切り込まれた無数の小潅漑路に、水は分配されて行く。潅漑路に沿ってポプラ並木が続く。ポプラの並木の両側には田畑が広がる。潅漑路は、まさに、オアシスの血管であり、水は田畑を潤す血液である。
 次に、ユルンカシ川の取水堰を見学した。ダムは、タクラマカン砂漠と崑崙山脈の境目に発達した広大な扇状地にある。此処でも融雪水は、まず、川の両岸に分流される。ダムサイトから眺める崑崙山脈は、流砂に覆われ、砂嵐巻く死の世界である。河床には、見事に磨き上げられた球形、卵形、偏平状の巨礫がゴロゴ□している。礫質は、太古の変成岩類一片麻岩、混成岩、結晶片岩、珪岩で、いずれも硬い岩質である。灰色の河川水は、恐らく、硬い礫を磨き上げた研磨水の色であろう。ユルンカシ川は、古来、玉の産地として有名である。一獲千金を夢みて、川原でホータン玉を捜したが、簡単に見付けられるものではないと諦めた。
 タクラマカン砂漠の降水量は、年間50mmに満たない。砂漠の中央部では年間10mmを下回る。オアシスは、長い年月をかけ、幾世代にわたる住民の努力の結晶である。放置すれば、オアシスは縮小し、砂漠化する。気象条件も悪化する。僅かな降雨と激しい蒸発は、土壌表層に多量の塩類を集積させる。砂漠の土は、もともとアルカリ性である。水路を整備し、塩類を洗い流し、植林を進めることによって、アルカリ性の不毛の土壌は、豊かな耕作地に変える事ができる。排水も重要である。排水が悪く地下水位が上昇すると、塩類が上方へ移動する。飛行機の窓から眺めたタクラマカン砂漠は、細かな文様を描く流砂の砂漠と、塩類を吹き出し純白に化粧するゴビの砂漠の対照が異様であった。
 ちなみに、北新彊地区のジュンガル盆地は、広大なステップ草原であり、漢代から清代までは牧畜が主体であった。この地区が牧畜で支えた人口は、10万人程度に過ぎなかった。清代以後、漢族が入植し、潅漑、開墾を進めた結果、今では400万人近い人口を養えるまでに、地味と環境が改善された。

<田園都市ホータン>


 ホータンの道路には、必ず、ポプラの並木がある(写真7)。ポプラの並木は、様々の幹径の木が、幾重にも植っている。ポプラは成長が早く、10数年で建築材として利用できる。枝木は燃料に使う。大きい木を間引きした後に、毎年苗木を植えて行く。ポプラの並木は、夏の酷暑を遮るが、最も重要な効用は、凶暴な砂嵐を防ぐ防風林、砂防林の役割である。



 「ホータンの住民は、目立った産業がないので、大変貧乏です。」とアイラット氏は語った。街角のマーケットを覗いて見た。トマト、ナス、キュウリ、ピーマン、ホーレン草に菜の花、キャベツにレタス、セロリ、ネギにニラ、タマネギにニンジン、カブに大根、ショウガ、ニンニク、トウガラシ。果物は未だ出ていないが、野菜が豊富である。しかも値段が安い。生活環境はたいへん豊かであると感じた。此処のナスは偏平で、形はトマトに似ている。トマトの味は濃厚である。辛味のピーマンは絶品である。日本では既に失われた味である。辛味のピーマンの味をほめちぎったところ、ではお土産にと、ひと包みのピーマンを買ってくれた。お陰で、東京まで、一週間かけてピーマンを運ぶ羽目になった。
 アイラット氏に従い、樹齢500年のクルミの大樹を見学した(写真8)。クルミの大樹はホータンの北西の農園地帯にある。雨の降らない砂漠地帯で500年もの間、天塩にかけ育て続けた先人の努力に感嘆した。クルミの樹皮からは染料を取るという。



 近くの農園を見学した。ポプラ並木に沿って農道があり、葡萄棚が続いている。これがホータン名物の葡萄のアーチである。総延長は180kmにもなるという(写真9)。残念ながら、葡萄は、新芽を出し始めたばかりであった。ホータンは、日本の甲州ブドウの原産地だそうだ。



 ポプラ並木と葡萄のアーチの両側は、よく区画整理された農園である。農道に沿って、桑の木、クルミ、杏、バラ、トウモロコシを植えている。区画の中は麦、綿、野菜を栽培している。砂漠には虫がいない。ホータンには病虫害がないので、農薬を使う必要がない。
 500年前の開園という百味仙果園を見学した。此処には、イチジクの大樹があり、5アールの面積に枝を張っている。カリンの木や杏の大樹が見事である。杏の大樹の下は、ベンチを仕誂えている。夏の夕刻には、大勢の住民が集い、歌や踊りで賑わうことであろう。

<千闐の国>


 ホータンは、古来、千闐(ウテン)国として知られる。千闐の玉は、中国のみでなく、ペルシャでも賞玩された。千闐は、玉のほか、絹織物、絨毯の産地としても有名であった。千闐国には、中国人やインド人商人が移住し、西域南道の中心都市として繁栄した。漢代(BC2〜AD2)の千闐には、ビジャヤ(毘沙)王家が栄え、仏教文化が開花した。唐代(AD7〜9)には、東西交易の要衝として、安西の4鎮の一つが干闐に置かれた。ホータン近郊のマリカワト故城やヨートカン遺跡は、漢代の千闐国の城跡であろうと言われている。
 しかし、西域の地は、中国人(漢族)にとっては、異人の住む異境であり続けた。この時代、法顕(337〜422年)は、64才の高齢(399年)で、ホータンを経由して、インドへ向かい、海路帰国した(413年)。玄弉(602〜664年)は、国禁を犯して、西域に入り(627年)、天山北路を通り、タシケント経由でインドに至り、カシガル、ホータンを経由して帰国した(645年)。
 法顕伝によれば、西域の旅は:「付近一帯、悪鬼棲み、熱風生じ、遭えば則ち死す。上に飛鳥なく、下に走獣なし。ただ死人の枯骨を以て、標識となす」大唐西域記では「砂はただ風のまま流れ漂い、人通って足跡残らず、遺骸を集めて目印とする。四方見渡す限り、茫々として、目指す方、知る由もなし。」幻想と妄想、孤独と不安に苛まれ、魑魅魍魎が跋こする世界であった。この時の経験談が、後に、西遊記を生むことになる。
 法顕の仏国記によれば、千闐国は、「国は豊楽、民は殷盛、尽く皆法を奉じ、法楽を以て相娯しむ。衆僧数万人、門前皆小塔を建て、」という具合で、すこぶる評価が高い。参考までに、玄弉によるカシガルの記述、「住民の性質粗く、偽り多く、礼儀薄く、学芸平凡なり。」に比べると対照的である。
 千闐国は、10世紀、カラハン朝に征服され、イスラム化される。次いで、チャガタイ汗国(AD14)、チムール帝国(AD15)に支配される。その後、ヤルカンドやカシガルのイスラム政権の支配を受け、18世紀に、清朝の行政下に入る。
 ホータンの周辺には、ダンダンウイリクニヤ、カラトン、マザルタク、チェモー、ミーランなど多くの遺跡が砂漠中に発見されている。なかでも大規模なのはニヤ遺跡で、南北15km、東西5kmに広がり、往時のオアシス国家の繁栄をしのばせる。興味深いのは、これらの遺跡は、すべて現在のオアシス都市を結ぶ道路から、北側へ、50〜150kmも砂漠側へ位置していることである。砂漠化が進んだ結果なのか、あるいは上流へ上流へと水を求めて移動した結果なのだろうか。
 ホータンには、小さな博物資料館がある。主な遺物は、ウルムチへ運ばれてしまい、数は少ない。ミイラが、一体安置されている。高貴な女性の遺体で、絹の衣で身を包み、先の尖った洒落た靴を履いている。左腕が欠けているのが謎である。精巧な模様を織りだした絹布、羊毛の絨毯、銅製の大鍋、蚕のミイラ、木簡など、いずれも紀元前後のものという。伝説によれば、桑の種と蚕の蛹は千闐の国王が政略結婚を申し込んだ東国の姫に、帽子の中に隠して密かに持ち出させたという。
 往時のシルクロードの旅は、ラクダに頼り、砂漠を越えて次のオアシスに辿り着こうという、命がけの旅であった。ラクダも、水と植物なしでは、20日が限界である。従って、ラクダの隊商が進める距離は、せいぜい150km程度であろう。オアシスでは、ラクダの交換とラクダの休養が必要となる。元代に至ると、駅站が整備され、旅行が容易となった。

<玉の文化>
 

 玉は中国固有の文化で、5,000年の歴史を有する。玉は、古来より、権威と富の象徴であり、人間と霊界を媒介し、悪霊から身を守るとされた。中国人がめでたのは、鮮やかに光り輝く宝石ではなく、地味で落ち着いた玉であった。中国では、何故、これほどまでに玉が珍重されるのか、外国人である我々には理解し難い。
 ホータンは、古来より、玉の産地として有名である。玉(Jade)には、硬玉と軟玉の2種類があり、ホータン玉な軟玉である。ホータン玉は、崑崙山脈から押し出された扇状地の砂礫中から採取される。最近では、崑崙山中から発破で採取されたものもある。なお、西域への入口にある玉門関は、玉の密輸を防ぎ、王朝の利権を確保するための関所・税関で、漢代に建設された。
 硬玉は、鮮やかな緑色を呈するヒスイ(Jadeite)で輝石系の鉱物である。軟玉は、ネフライト(Nephrite)で角閃石系である。色は透明から半透明白色〜淡緑色〜灰褐色など様々である。軟玉は、微細・緻密な繊維状の結晶組織で、樹脂様の光沢を呈するのが特徴である。ネフライトもヒスイも、低温高圧下で生成する鉱物である。中国では、ヒスイ、ネフライト以外でも、色彩鮮やかな鉱物を、例えば、ルビーを紅玉、トパーズを黄玉などと称するので注意したい。
 ホータンには、玉の加工工場がある。原石も並べている。こぶし大の玉石でも、数万円から数10万円とえらく高価である。「高すぎる」と言うと、「玉は、天からの授かり物、値段は付けられない」と答える。試しに、白色系と褐色系の小さな玉のペンダントを2個買ってみた。手のひらで握ると、皮膚によく馴染む。石というより樹脂の感覚である。2個のペンダントを擦り合わせると、キュキュと小動物のような鳴き声を上げる。なるほどと思った。玉は権威と富の象徴というが、実は、庶民の親しみの対象ではなかろうか。玉には潤いと暖か味がある。
 なお、ヒスイは東洋あるいは中国の宝石と言われているが、原産地はビルマである。ビルマに接する雲南省には大量のヒスイが持ち込まれている。濃緑色、半透明の石が高価である。これとは別に、白色の地に鮮やかな明緑色をちりばめたタイプがある。昨年、昆明で、「これは何処の産か」と聞いたところ、「知らない、昔から中国にあったものと思う」と答えた。多分、原産地はやはりビルマであろう。このタイプの石は、最近は少ないらしい。
 ちなみに、最近、ホテルや街の土産物店で、安価な緑色の石をよく見掛けるが、これは観光客向けで、ベトナム産である。昆明の宝石商で、ルーペで宝石を観察した。面白い事に、鮮やかに輝くヒスイやルビーには、微細な不純物が無数に含まれる。不純物の散らばり具合が美しさを演出する。これに対して、合成と思われるルビーは透明で澄んでいるが、色彩に深みと華やかさがない。あばたもえくぼという言葉を思い出した。

<不老長寿の里>


 ホータンは長寿の里である。100才以上のお年寄りが480名もいる。最高年齢は123才である。厳しい砂漠の環境で、長寿者が多い理由は良く分からないが、恐らく、食物の影響だろうと考えられている。
 ホテルで珍しい食物ーバラのジャム(グルカンド)を紹介された。グルカンドは、食品ではないので、街の商店では売っていない。病院で扱っている。ウイグル医学独特の病人食だという。早速、取り寄せて試食した。効能は色々あるらしいが、何に効くのか要領を得ない。確かに、整腸作用はあるらしい。東京に帰ってから少々多量に試食したところ、その効き目に仰天する羽目になった。胃腸の活動が活性化する。それ以来、時々、思い出したように、少しずつ食べている。
 アロマセラピーの専門家に伺ったところ、バラの香りは、高価な香水や化粧品には、大抵ブレンドしてある。胃腸、皮膚粘膜、脳などの細胞を刺激し、その活動を活性化する作用があると聞く。細胞老化の悪役となる活性酸素を押える作用があるらしい。アロマセラピーは花粉症にも効くらしい。子供に与えれば頭が良くなるかも知れない。
 バラの栽培は、古代オリエントに始まり、香料と薬用に使われた。ギリシャ、ローマを経てフランスに渡り、フランスの香水に生かされている。アロマセラピー用のバラのエキスは、最近、フランスやイギリスから盛んに輸入されている。観賞用のバラを栽培するようになったのは、最近の事らしい。  
 香料用のバラの産地として有名なのは、ブルガリア、モロッコ、トルコである。バラのエキスを抽出したバラ油は、たいへん高価である。作用が強力なので、100倍以上に薄めて使う。イスラムでは、花弁を蒸留して作ったバラ水を、汚れを清めるために使う。強い抗菌作用があるためである。10年ほど前のことであるが、バラの栽培で有名なモロッコのマゴンの谷で、化粧用のバラのクリームを売っていた。たいへん高価であった。マゴンの谷は、アトラス山脈の積雪水を源とする湧水が、サハラ砂漠へ流れ出すオアシスである。良質のバラのエキスには、砂漠の乾燥気候と輝く陽光と高山からの水が必要のようである。
 ホータンには、色々な薬草があるが、最も印象に残ったのは、チャイドルスと称する薬用茶である。色はウーロン茶に似ているが、ピリッとした刺激がある。油の乗った羊肉を食べた後で飲むと、体中がすっきりする。アイラット氏によれば、若返りの妙薬もあるらしい。ウイグルの精力剤も有名である。機会があれば、これらの秘薬の効用とノウハウを調べてみたいと思う。

<ウイグルの女>

 シルクロードでは、昔から、「男は農奴、女は歌舞姫のように美しく」と言われる。ウイグルの女性はカラフルで、華やかで、朗らかで、とりわけ印象深いのは何故だろう。
 ウイグルの女性の顔には色々あるが、特に目立つのは、面長で角張った顔である。顔の造作の彫りが深いのが特徴である(写真10-A)。東洋人にはない個性的な顔である。紀元前、草原を支配したスキタイの顔なのだろうか。次に印象深いのは、丸顔で、目鼻立ちが整った顔である(写真10-B)。この顔は、カシガルの香妃墓で見た香妃の面影である。



 最も多いのは、小振りで四角い顔である。つくづく観察すると、派手さはないが、目鼻立ち、口元などすべての造作がバランス良く整っており、本当の美人である。この顔は、本来のトルコ系の顔なのだろうか。ウイグル人はかなり混血を重ねているはずである。前述のAの顔、Bの顔は、混血で平準化した顔とはとても思われない。突然、先祖帰りした祖先の顔ではなかろうか。
 イスラム社会は、男性優位の社会である。モスクは女人禁制である。男が、毎日5回のナダームと毎年30日間のラマザーンで、アラーの神への崇拝を行っている間、女は、商売に、手工芸に、農耕に、家事に、育児に精を出している。バザールの露店で働いているのは、力仕事を除けば、大抵女性である。これでは、女性に経済的な実権が移るのは自然の成り行きであろう。
  
 写真10-A・Bの女性は、いずれも露店食堂を一人で取り仕切っている。ABとも真紅のドレスを纏い、印象は強烈である。ホータンには店構えのレストランはない。大通りが、夜になると露店に早変わりする。バザールでも、商店も食堂も皆露店である。
 ホータンは美人の多い所である。街を散策すると子供が群がって来る。子供は皆快活である。大切に育てられている。特に女の子は可愛らしい(写真11)。


 アイラット氏は、以前、スエーデンの協力で、コンデンスジュースの工場建設を担当した。その時の逸話を披露した。「技術指導のため、スエーデンから来た若手の技師が、仕事が終わっても帰ろうとしない。ホータンの女性と結婚してホータンに住み着きたいという。」彼は笑みを浮かべながら、「又、戻ってもらうと言うことで、無理やり国に帰ってもらいました。」と語った。なお、アイラット氏の奥方は病院の医師で、住居は病院内にある。家では、奥方に頭が上がらないらしい。

<砂漠の砂嵐>
 

 5月17日(金)は、ホータンを去り、ウルムチへ戻る予定である。午後になると、急に風が強くなり、空が黄灰色に変わった。離陸は夕刻の19時の予定である。

 視界は数10m程度、滑走路には砂の波ができている。結局、飛行機は、着陸できず、カシガルへ向かってしまった。ホータン-ウルムチ間のフライトは週3便、次のフライトは3日後の月曜日となる。明日、臨時便は出るのか、月曜日のフライトを待つのでは、我々のスケジュールは目茶苦茶になる。問い詰めたところ、「明日の事は、明日にならねば分からない。」と言われた。
 いっそのこと、ジープでタクラマカン砂漠500kmを横断してウルムチに出たいと申し出た。しかし、今、我々が使っている北京型ジープでは、リスクが大き過ぎる。街中を走るのさえ、左右に揺れ、不安定で頼りにならない。実は、カンスーで、我々の乗った北京型ジープが、突然白い煙を出してエンジンストップした。結局、ジープは迎えの車が来るまで、運転手とともに砂漠の中に放置されることになった。砂漠では車の故障は命取りとなる。
 さて、どう対処すべきか、アイラット氏に相談した。彼の判断は的確であった。「とにかく、明日正午まで、ウルムチからの情報を待とう。もし、飛行機が出なければ、午後、カシガルに戻ろう。カシガルなら、毎日1〜2便、フライトがあり、その日のうちにウルムチへ出られる。」というものであった。
 幸いな事に、18日10時頃、ホータンへの臨時便がウルムチを飛び立ったとの情報が入った。午後になると、昨日同様、風が強くなり、不安が増したが、飛行機は、無事着陸した。地区政府に聞いたところ、ホータンでは、年間600t/アールの砂が降り注ぐという。これは高さにすると年間約3mになる。恐らく、風が運び去る砂もかなりの量となろう。いずれにせよ、砂の被害と降り積もった砂の除去作業は、我々の想像を越えている。
 なお、ホータンは3年前に開放されたばかりで、ホータンへの外人観光客は未だ少なく、年間3,000人程度である。その内、日本人が圧倒的に多く、80%を占める。大学の登山隊、遺跡の発掘調査や長寿の研究のための大学の先生方が常連である。ホテルの現状は、和田賓館が80室、ベッド数162床、和田迎賓館が80室、160床である。和田迎賓館は、増加する観光客の受入れに備えて増設を計画している。和田観光局は、観光客の足回り用に、ランドクルーザー4台を含め、マイクロバス、大型バスなどの車輌計16台を保有し、日・英・仏語のガイド数名を常時待機させている。

<エピローグ>

 シルクロードの旅は、昔は、ラクダによるキャラバンの旅で、横断するのに数年を要した。現在、自動車道路、鉄道、航空路が急速に整備されている。輸送される物資は、絹織物や陶磁器に代わって、石油、石炭、鉄鋼、綿花、羊毛、果物などが東へ向かい、機械、日用品などが西へ向かう。輸送能力は飛躍的に強化されている。輸送日数は、鉄道網が整備され、国境の積替施設と通関業務が合理化されれば、中国沿海部からヨーロッパ各国まで、2〜3週間に短縮されよう。
 ウルムチの開発計画担当者の新彊に対する思い入れは強く、「中国全体の改革開放路線の成功の鍵は、新疆が担っている。」と強烈である。短い旅であったが、シルクロード沿線を垣間見た結果から、次の視点を十分配慮するよう、開発政策当局及び関連機関に要望したい。


(1)ホータンには、豪華なホテルは建てて欲しくない。自然に親しみ、人々との交流を目的とする滞在型の観光を期待したい。又、砂漠の横断では、若者のために、体験型冒険型の旅行を提案したい。簡易テントと炊事用具を持参し、途中、砂漠でビバークし、自炊する。食料は自分達で調達させる。満天に輝く星空を仰ぐのはいいとして、凶暴な砂嵐に遭遇したらどうなるかと、多少心配ではあるが、日本の中学生や高校生には、思い出に残る有意義な経験となろう。

(2)崑崙山脈は、環境厳しく、ほとんど未踏査、未開発である。崑崙は、いわば、地殻のはらわたを地表にさらけだした山脈といえる。我々の常識を越える予想外の大鉱床、鉱種が眠っているのではないか。21世紀以後の資源供給を支える地区となる可能性が考えられよう。調査、開発には、波及効果と累積効果を重視し、開発が開発を呼ぶという拡大再生産に繋がる総合的、計画的なアプローチが重要であろう。しかし、少しでも早く、開発の橋頭堡を築くという視点も必要であろう。

(3)アイラット氏が目を輝かせて語った事がある。「私共の最大の課題は、砂漠化を防ぐことと、砂漠を利用することです。そのために、人工降雨の研究を行いたい」。確かに、人工降雨の実現は、技術的には可能であろう。しかし、経済的にペイするとはとても考えられない。チベットから四川省へ流れる気流を、北側の崑崙山脈付近まで引き寄せる必要もある。だが、夢が夢を呼び、意外なところから進歩への活路が開けることもあろう。砂嵐の害を防ぐことも重要だが、砂嵐を利用する視点も大切なのではなかろうか。

ぼなんざ 1996.8

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